イエスが、エルサレムに来られたということには特別な意味があります。しかも、子ろばに乗って入られます。多くの人々は自分の服を道に敷き、また葉の付いた枝を切って来て道に敷きました。そして「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に祝福があるように。いと高きところにホサナ」と歓呼の叫びをあげながら……。これまでの、目立たない歩みとは違ったイエスの姿がここにあります。「ホサナ」それはイエスが王として来られたことを意味する言葉です。メシアと呼ばれるまことの王、救い主が来てダビデの王国を再現して下さる、そういう救いをイスラエルの人々は待ち望んでいました。人々はイエスを迎えて「ホサナ」と叫びました。神に救いを求める祈りの言葉です。イエスはそういう声に迎えられて、主の名によって来られる方、父ダビデの国を再建する方として、王の都エルサレムに入られました。このような仕方で、エルサレムに入ることを望まれたイエス。そこにはどんな意味があるのでしょうか。その意味は大変重要です。
これまでのイエスは、人々を支配する者としてではなく仕える者として歩んで来られました。しかしここでは、ご自分のことを「主」と言い、そのように呼ぶことを弟子たちに求めておられます。そして、今、神の民イスラエルの王の都であるエルサレムに入られます。そこは、本来神ご自身が王として支配するべき場所です。そこに、神の独り子イエスが、まことの王として入られるのです。しかし今、この町を支配しているのは異邦人の総督ポンシオ・ピラトです。やがて、この人々によってイエスは捕えられ、裁かれ、十字架につけられ、殺されていくのです。今この神殿を支配している祭司長たちは、人々を救うために来られたイエスを歓迎するどころか、むしろ彼を捕え、ローマ総督ピラトに引き渡し、十字架に付けて殺してしまうという残酷な現実の中にあっても、神の救いの計画は進行していきます。
この人々の姿は、私たちの姿でもあることに気づかなければなりません。私たちはもともと、自分が王となって、自分の思いによって生きている者です。仕える者となって来られたイエスは、私たちになくてはならない方向転換を求めておられます。イエスがエルサレムに来られたというのはそういう出来事なのです。このことを通して、イエスは私たち一人ひとりに、本当の意味で、神を信じ、人を愛する道を切り開いて下さいました。このイエスの歩まれた道を、イエスと共に歩む…。それがイエスを王として迎えるキリスト者の在り方です。
以前からイエスに従っていた者もいれば、 つい最近ついて来るようになった人もいたでしょう。いずれにせよ彼らは、「イエスの歩まれる道を、イエスと共に、イエスに従って歩んでいる人々」です。沿道で見物しながら旗を振っているだけではなく、たとえ失敗してもイエスと共に歩もうとする人々です。そこが重要です。そこにキリスト信者の姿と使命があります。地上の王の姿とはいかにかけ離れていることでしょう。ろば……これも本来、王が乗るものではありません。ろばに乗る王というのは聞いたことがありません。しかも、訓練が全く行き届いていない子ろばです。なんと弱々しいものだったことでしょう。人々が、自分の服や野原から切ってきた枝を道に敷くというのも雑然とした状況です。イエスのエルサレム入城は、王の到着などとは全くほど遠いものだったのです。イスラエルのまことの王、救い主がエルサレムの神殿に来られたのですから、本来ならエルサレム中が大騒ぎになるようなことです。しかし、多くの人々はイエスが神殿に来ても意識さえしていません。これほど、イエスのエルサレム入りは人目を引くような出来事ではなかったのです。そこに、もう一つの大事なことが示されています。
まことの王、救い主であるイエスが私たちのもとに来られても、誰もがはっきりと自覚しているわけではないということです。それが分かるのは、イエスと共に歩み、イエスと共に従って行く者たちだけです。イエスが救い主として来て下さった神秘は、イエスによって召され、招かれ、イエスと共に歩む人々の信仰の中でこそ分からせて頂く神秘です。
「シオ ンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」。(ゼカリヤ書9章9~10節)
イエスのエルサレム入城は、この預言の言葉の成就でした。ろばは、「貧しき者」の象徴です。地上の王は、武力によって人々を支配します。しかし、神から遣わされる王は全く違う姿で来られました。その方の、命を懸けた犠牲によって、戦車や軍馬、弓は絶たれ真の平和が打ち立てられます。イエスがエルサレムに来られた事には大きな意味があります。武力で敵を打ち破り王となるのではなくて、全ての人間の限界をご自分の身に引き受けながら、十字架にかかって死んで下さる王の姿です。この十字架への歩みを通して、イエスは地上に教会を建設して下さいました。
イエスの最後の一週間の歩みがここから始まります。イエスは最後にご自分の体を裂き血を流しながら、それでも変わらぬ神の愛、共にいる神の姿を教えて下さいました。このイエスと共に生きる中で、私たちの貧しい体験も、主の十字架の神秘に与るものとして高められて行くのです。イエスの十字架があるから、私たちの十字架にも価値があるのです。