「わたしは心騒ぐ。『父よ、わたしをこの時から救って下さい。』しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」(27節)と語っています。イエスによって実現される救いを、弟子たちは間もなく見ることになります。かつて、予告されていたことが、いよいよ実現される時が近付いて来ているのです。

 イエスによって実現される救い。それは全ての人々に及ぶものです。イエスは、わたしたちが、神との本来あるべき関係を生きるためになくてはならない存在です。どのようにして、その救いが実現されるのでしょうか。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)。

 一粒の麦の種が地に落ちて死ぬ事によって実現される救いです。イエスはその使命を果たすために来られました。イエスの十字架の死によって実現される救い。十字架の死こそ、復活の命という新たな実を結ぶものです。福音書は、イエスの十字架を見つめながら、イエスによってもたらされる救いを語ります。

 いよいよ、その時が近づいて来ました。私たちは、イエスによって実現されたこの新しい時を生きています。神の御子が、ご自分の命を犠牲にしてもたらされた救いです。イエスと結び合わされた私たちは、イエスと共に、神に愛される者として生きます。イエスを復活させて下さった神は、私たちにもこの永遠の命を与えると約束しておられます。イエスの十字架の死と復活によって到来した新しい時を私たちは生きているのです。この時を相応しく生きるために必要な勧めもイエスは教えています。

「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(25節)。

イエスによってもたらされた新しい生き方がここにあります。イエスは、私たちが自分の人生を喜んで生きる事を願っておられます。そのために、ご自分の命を犠牲にしてまで、神との良い関係を生きることができるようにして下さいました。イエスによってもたらされた永遠の命を、信じる全ての人々に与えると約束しておられる神。イエスの十字架と復活によってもたらされる恵みを通して、私たちは自分の命を本当の意味で大切に生きることができるのです。

イエスに拠らずに、永遠の命に至ることはできません。イエスの十字架と復活による救いを通して私たちは、神の命と救いの恵みに与るのです。この私たちを、神の命に至らせるのは神の愛です。そこで私たちは、自分の命よりも大切なものがある事を知らされます。    イエスの十字架と復活によって到来した新しい時代を生きるとは、この神との交わりに生きることです。神の愛の中で生かされる者となることです。その時 私たちは、たとえ様々な不安や恐れの中にあろうとも、希望を失わずに生きる恵みを体験しているのです。

 「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」。(星野富弘詩集)

 いのちより大切なもの、それはイエスの父である神との交わりです。そこで明らかになるのが神の愛です。それを知らずに、自分の力で生きようとしている間、私たちの人生は苦しみの連続でした。大切な命を失うのではないかという恐れや不安といつも戦っていたのです。しかし、神が、その独り子をお与えになるほどに私たちを愛して下さっていることを知った時から、生きることは喜びに変わりました。いや、生きていることだけでなく、いつか訪れる死さえも恵みに変わります。不安と恐れの中にある私たちに、今一番必要なことは、イエスの言う「いのちより大切なもの」を知ることなのです。それを教えるためにわたしは来た……とイエスは語っています。神の愛のみが、すべてにおいて、すべてとなりますように……。