「主が墓から取り去られた」…… 打ちひしがれていたマグダラのマリアと弟子たちに衝撃的な事が起ったのです。深い悲しみと不安の中で、彼らはこの出来事をどのように理解すれば良いか分らず戸惑っていました。主を失った彼らは、ただ泣くことしかできなかったに違いありません。さらに、考えられないことが起ります。誰かがイエスの遺体を奪い去り、どこかへ運んでしまった……。知らせを聞いたペトロともう一人の弟子も走り出しました。復活の出来事を語るヨハネ福音書は、このような状況の中で復活の神秘とキリストとの出会いの体験を語ります。それは、人間の理解を遙かに超える神の出来事です。彼らが戸惑うのも無理はありません。これから、何を支えに、どうやって生きていけばよいか分らなくなっていた弟子たち。そのような悲しみの中にあった彼らは、マグダラのマリアからの知らせを受けて走り出します。どこへ向っているのでしょう。イエスが納められていた墓です。なぜ、走っているのかさえ分からずに彼らは走り出しています。

実は、ここに私たちの姿があるのです。不安の中にありながら、これからどう生きていったらよいか分らずに、右往左往している人間の姿です。それでも…、見えない何かに向って歩み出すしかありません。それが私たちの姿です。信仰の世界は、いつまで経っても想定外のこと、分らないことだらけです。なぜ、どうして……と問うても答えは分りません。神がなさることだからです。しかし、何かに促されて歩み出す中で私たちは、おぼろげながら、何かに気付き始めるのです。そこで目が開かれるのです。その積み重ねが信仰の恵みです。それこそ、私たち一人ひとりの中で、今も神がなさっておられるみ業なのです。

「見ないで信じる者の幸い」がそこにあります。私たちも、イエスの姿を直接見たことはありません。なのに、どうして、信じる事ができるのでしょうか。イエスが約束してくださった信じる恵みを頂いているからです。使徒たちの時代から教会において語り伝えられている信仰の証しを聞きながら、信じる恵みを頂いて今ここにいるのです。その恵みを受け留めることの出来たあなたは幸いであるとヨハネは語っているのです。彼らが見たものは何だったでしょうか。空の墓だけです。遺体のない空の墓。不思議なことです。そこから教会が始まり信仰を始まったとは…。人の思いを超えた神のみ業としか言いようがありません。その体験によって彼らの信仰は、初代教会の基礎を固めるほどに深められていきます。

 「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」(9節)。

弟子たちは、戸惑いながらも、復活したイエスとの出会いによって信仰の神秘、復活の神秘を徐々に理解するようになりました。大事な事は、信じられない弱さを持った者でありながら、それでも信じる者にならせてください。あなたを信じる信仰を下さい…と願うことです。その中で、イエスとの出会いを体験させて頂くのです。

 それまで落胆していた彼らは、墓が空であることを知って走り出します。走っていく中で彼らは、それまでイエスと共に過ごした日々を思い起こします。そして、自分が本当に求めていたものが何であるかに気付き始めます。何に飢え渇き、どこへ向って歩めば良いのかがおぼろげながら分るようになってきたのです。信仰は、全てを分った上で成長するのではありません。飢え乾く心、求め続ける心、そして 私の心を今も叩いておられるイエスに気付くことから始まります。

イエスによって心動かされた人々は、この光に向って歩み出します。イエスが、私たちの心に植えてくださった信仰の種です。それを成長させてくださるのもイエスご自身です。こんなにも鈍く、こんなにも不完全な私たちをイエスは待っておられます。どんな時でも共におられ、導いて下さる神に気付いてほしいと願いながら、イエスは今日も私たちの心の扉を叩いておられます。復活されたイエスが共におられる限り、私たちは希望を失う必要はないのです。祈りましょう。復活の主は、私たちの小さな祈りを通して、全世界の人々に神の祝福を届けたいと望んでおられます。洗礼の恵みを頂いた全ての人々のため、また、心の深いところで神を探し求めている人々のために……。 御復活おめでとうございます!