「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と語るヨハネ。彼は、どんな思いでこれを語ったのでしょう。これに対して イエスは、彼らが期待していたのとは全く違うことをおっしゃいます。「やめさせてはならない。彼らも わたしたちの味方である」(38節~40節)と。

ヨハネは激しい性格であり、同時に大変熱心に動く人だったと思われます。その熱心さによって人一倍、優れた働きもしたことでしょう。しかし、そこに人間の陥りやすい落とし穴もあるのです。それは、自分の正しさによって周りを裁き、自分の意見に同意しない人を批判するということです。そして、かつて弟子たちがそうであったように 無意識のうちに 自分たちの中で誰が一番偉いか…(先週の福音箇所参照)と考えるようにもなります。そうなると、本来味方である人さえも敵に回してしまうことにもなるのです。良いことをしながら周囲に敵を作り出す。そんな 愚かな生き方をしているのが人間なのかも知れません。

人と人との間には 必ず違いがあります。しかし、それは対立のためにあるのではなく、たとえ考え方や実際のやり方に違いがあろうとも、根本的なところでの共通点を見つめ、互いの異なった存在によって より良いものを生み出すために与えられた恵みなのです。互いの違いを そのような恵みの観点から受止めなさいとイエスは語っているのです。そうすることによって、私たちの狭い視野を 互いの交わりに向けて広げていくことができる、それがイエスの望みなのです。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」という言葉の意味もそこにあります。

「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(41節)。これは、「あなたがたは、わたしのもの、キリストに属するもの、主のものである」というイエスの思いが込められた言葉です。この主の思いゆえに、今の自分がどんなに欠点多き者、不完全な者であろうとも、私たちはすでに主のものとされているのです。それゆえに、あなたたちに、一杯の水でも差し出した者を 主は決して忘れることはないと 断言されるのです。信仰を持っていない人でも、“キリストの弟子だという理由”で、この人々に一杯の水でも飲ませてくれるなら、その人々はわたしの味方なのだ、神は必ずその人々に 大きな報いを与えてくださる とイエスは語るのです。

その直後に、今度は、キリスト者どうしで、人を助けるどころか、つまずかせることがある、と語っています。これは私たちが、主の前に深く恥じ入らなければならない現実です。イエスのこの警告を私たちは畏れをもって受け止めなければなりません。信仰を持っていない人が神の報いを受けるのに、キリスト者は逆に、首に石臼を懸けられ海に投げ込まれる…(42節)、とまで主が言われるのはなぜなのでしょうか。

ここで語られているのは、何としてもつまずかないで欲しいというイエスの願いです。いかなる人にも、いかなるものにもつまずかされないで欲しい、神から引き離されずにいて欲しいと願うイエスの強い思いなのです。大抵の場合、つまずかされるのは、小さな者や弱い者たちです。信仰の強い者が、弱い者をつまずかせる? それは一体どういう事でしょうか。正確に言うなら、これは信仰が強いのではなく、強い者であろうとしている という意味です。この場合の強いという言葉は、信仰を知識としてよく知っている、あるいは愛の行いに一生懸命励んでいるがゆえに…ということでしょう。一生懸命に 何かに向かって頑張っている…、それは良いことに違いありませんが、その時、私たちは気をつけなければ 自分の周囲に弱い者、小さな者を作り出している面もあるのです。

私たちは、頂いた信仰の恵みを 多くの人々と分かち合いたいと望みます。けれども、必ずしも うまくは行かないのが現実です。しかし、あなた達に反対しない限り、その人たちは少なくとも敵ではない、とイエスは語ります。信仰を通して私たちは、敵を作り出すのではなく、味方を見出し作り出していくべきである。それがイエスの思いであり、イエスのこころなのです。これを理解し、協力してくれる人の存在がある限り、神の国は全世界を巻き込み 確かに前進しているのです。

イエスのものの見方は、父なる神がどのような目でこの世界を見ておられるか、ということが中心にあります。神は、私たちを友として見て下さっているのです。それは、イザヤ書で言われる「傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことなく」救いのみ業を行う方(イザヤ42・3)です。この方の愛のまなざしに触れることによって、私たちは少しずつ変えられていきます。もともと、神の思いとは違う方向に向かっていた私たちが、敵対しない者、神の思いに協力する者に変えられていくのです。そこでイエスへの愛ゆえになされたことを、神は喜んでくださるのです。神の思い、イエスの救いに与るとはそういうことです。様々な違いがあっても、隣人の中に友を見出し喜ぶことができる、そのような恵みに私たちは招かれているのです。

先週の福音箇所(9・33以下)で弟子たちは、自分たちの中で誰が一番偉いか と議論していました。つまり、自分たちの中で、誰が一番大きいか、強いか、立派な者か、と議論していたのです。自分こそが、一番偉い者でありたい、強い者、大きい者でありたいと願っていた弟子たちも、決して人をつまずかせようと思っていたわけではありません。むしろ自分がより良い者、より信仰深い者、愛の奉仕においてより熱心な者であろうと努力していたのです。しかし、それが人をつまずかせる歩みとなっていることに気付いていなかったのです。それは、私たちも同じ事です。人をつまずかせることは、つまずかせようとして起るものではありません。むしろ熱心に、一生懸命に励んでいるところで、より良い奉仕ができるよう努力しているところで起ることなのです。

では、どうしたらよいのでしょうか。一生懸命に信仰に励んだ結果、人をつまずかせてしまうなら、何もしない方がよいのでしょうか。適当なところで留まっていなさい とイエスは言いたいのでしょうか。そうではありません。問題は、私たちが、信仰において、どのようなことを熱心に励んでいるか、どういう向上を目指しているかということなのです。

 ここでイエスが指摘しておられることは、人をつまずかせるというよりも、既につまずいている 私たちの問題です。もし、あなたに つまずきを引き起こすものがあるなら、たとえそれが片手、片足、片目というような 体の大事な一部分であっても それを切り捨ててしまいなさい とまでイエスはおっしゃるのです。イエスはこの言葉によって、私たちが信仰において何を望み、どこに向かって歩むべきかを語っておられます。つまり、私たちの信仰の目標、努力すべきことは、豊富な知識を得ることでもなければ、より優れた 立派な奉仕の評価にあるのではなく「つまずかないこと」なのです。これこそ、私たちが求めていくべき本当の意味での目標であり、信仰の強さなのです。

イエスの言う信仰の強さ…。それは信仰の知識の問題でもなく、熱心な愛の奉仕の問題でもなく、つまずかない人のことです。教会で何があろうと、誰に何を言われようと、悩んだり、苦しんだりすることはあるけれども、それでも決してつまずくことはない、信仰を失うことはない、そういう人こそが本当の意味で信仰の強い人なのです。これは、非常に大切なことです。しかし、簡単なことではありません。自分と神との関係が確立していなければ難しいことです。自分はどの位置にいるのか、自分がどれくらい奉仕し、愛の業に励んでいるのか、それをまわりがどう評価してくれているか、ということを中心に生きてしまいがちなのが私たちの現実です。つまずかない信仰というのは、イエス・キリストに根拠を置く信仰、神の恵みに信頼する信仰です。そのために必要な事は、つまずきとなるものを切り捨てることです。「もし、あなたの片手、片足、片目が、あなたをつまずかせるなら…」とはそういうことです。手も、足も、目も、私たちにとっては なくてはならない大切なものです。人生において、努力することが悪いのではありません。しかし、そのようなものを追い求めていく中で、神の恵みよりも自分の業績の方が中心になってしまうなら いつの間にか その素晴しい業績が、私たちの信仰をつまずかせるものとなってしまうのです。そして、いつしか 一番大切なものを見失ってしまうのです。それを避けるためにイエスは、「自分の手や足や目を切り捨てなさい」とおっしゃいます。手や足や目を切り捨てたら、私たちは不自由な者、弱い者となります。しかし、主は敢えてその道を歩みなさい、そのような弱さを生きなさい、とおっしゃるのです。それは、自分の力や働きによって大きな者、強い者となるのではなくて、神の恵みによって生かされる者になれ、という意味です。両手が揃ったまま地獄の消えない火に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる…とは、そういうことを語っています。本当の命にあずかって歩む道もそこにあるからです。イエスのこの言葉は、迫害時代の教会にとってはどれほど大きな慰めであったことでしょう。現代の私たちも、様々なものを失いながら生きています。しかし、それでも私たちは地獄にいるのではないのです。神の救いの約束のもとにあるのです。何としてもつまずかないで欲しいというイエスの篤い思いのもとにあるのです。苦しみがあることは、神から見捨てられていることを意味しません。十字架への道を歩まれたイエスが 最後まで持っていた父なる神への思い…。それをここで思い起こしたいのです。この世にある限り、苦しみは避けられません。しかし、無意味に苦しんでいるわけではありません。地上においてだけでなく 永遠にもたらされる実を結ばせるために、神は私たちの人生に目的を持って関わっておられます。そのために、神は この世におけるあらゆる苦しみさえも用いられるのです。そのことは、教会の歴史を見れば分ります。迫害に代表されるような不当な苦しみさえも、神は 完全な調和と命の豊かさが満ちあふれる恵みの回復のために用いられるのです。

今日の福音箇所には出ておりませんが、この福音の直後(9・49以下)でイエスは、このような生き方は、神の言葉によって味付けされた人生となることを語っています。私たちは、イエスに属する者でありながら、もしかしたら 別のものによって信仰の味付けをしようとしているのではないでしょうか。それは、互いの平和を損ない、妬みや争いを引き起こし、人をつまずかせる歩みとなります。イエスによって実現された神の恵み…。それは、生身の人間にとって火のように熱い感覚であるかもしれません。しかし、それは聖霊がもたらす実りです。この聖霊の炎によって味付けされた者は自分自身のうちに塩を持っており、それによって、福音の平和を生きることができる とイエスは言われるのです。

 神の独り子イエスによって私たちは、恵みの塩味を付けられています。イエスの十字架が、この世の地獄を恵みの泉に変えたのです。神の恵みの塩味を付けられた私たちはもはや、自分の業績などによって味付けをしなくても、神の恵みに身を委ねて生きることができるのです。それこそ、イエスによって与えられた信仰、私たちが求めなければならない本当の信仰です。大切な事は、たとえ何が起っても それらが私たちを救いの道から引き離すことを神は許さないのです。神は私たちを愛しておられます。そして、私たちが真の命に与ることを望んでおられます。