「イエスは、ティルス地方を去りシドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」とあります。これらの土地は、ユダヤ人の地ではなく異邦人の地です。イエスは、このような地を巡って ガリラヤ湖へ戻って来られたということです。それはユダヤ人にとっては珍しいことです。しかも、「誰にも知られたくないと思っておられた」(24節)という旅の中での話しですから、イエスはある意図をもって この旅を始められたと思われます。それは、この旅において弟子たちとの交わりを深め、その中で何かを準備しようと考えておられたのではないでしょうか。弟子たちと親しく語り合い、交わりを深める中で彼らに伝えられるべき大切な何かがあったのです。(その答えは、8章31に書かれています。)
今日の福音は、「耳が聞こえず、舌の回らない人がイエスによって癒された」という話ですが、舌の回らない という表現は、「言葉に困難がある」という意味です。また、耳が聞こえないというのは、声を出す機能に問題がなくても、話すことができないということです。本当に聞くことが出来るかどうかで、話すことが出来るかどうかも決まってくるでしょう。そういう人がイエスのもとに連れて来られ、イエスに手を置いて治して頂きたいと願ったのです。思い起こして下さい。イエスはこれまでにも、たくさんの病人を癒されました。その時の特徴は、その人だけを 群衆のいない所に連れ出した上でなさっておられます。なぜでしょうか。それは、自分の力や権威を誇示し、人を驚かすことが目的ではないからです。イエスは、ご自分のなさる奇跡を できるだけ人々の目から隠そうとしておられます。一対一の真実の出会いの中でこそ 神の慈しみの業は行われるものだからです。そうでなければ、どんな奇跡が行われても福音が伝わらないばかりか意味もありません。
「主が彼を群衆の中から連れ出し、指を彼の両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触れられ、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた」。
ここでイエスは、いろいろな動作をなさっておられますが、それには どんな意味があるのでしょうか。
「天を仰いで…」。この言葉は、パンと魚の奇跡の箇所(6章41)でも出てきました。それは、祈りの姿勢です。イエスが行われる神のみ業は、決して魔術的な力ではないのです。イエスと父なる神との親密な交わりにおいて行われるのです。「深く息をつき…」。これも他の箇所では「うめく」とか「苦しみもだえる」という言葉で表現されているものです。(以下参照)
「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。… わたしたちも、神の子とされることを、心の中でうめきながら待ち望んでいるのです」。(ロマ8・22以下)
「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」(コリⅡ5・2)。
このように、「深く息をつく、苦しみもだえる、うめく」は、罪と死の力に支配されているこの世において、うめきつつ、苦しみつつ、そこからの救い、解放を待ち望んでいる私たちの現実を表わした言葉なのです。イエスは、耳が聞こえず 舌の回らない人々と共に、父なる神に向かって取りなしておられる方なのです。
「うめき」とは、どう祈ったらよいかさえも分からない私たちのために、言葉に表せない「うめき」をもって祈る聖霊の働きを思い起こさせます。イエスも、同じように苦しみの中にある人々のうめきを、ご自分の祈りと共に御父に捧げておられる方なのです。このような、イエスの祈りと 聖霊の取りなしの中で、父なる神による 救いの計画は今も 確実に進展しているのです。
耳が聞こえず、口が利けないことによる苦しみ。それは、罪の力に捕えられ、支配されている人々の姿を象徴的に表しています。イエスは、ご自分の指をこの人の両耳に差し入れ、塞がれている耳を開こうとされました。しかもイエスご自身も そこでうめきながら、私たちを苦しめている罪と戦いながら、私たちが 神のみこころを聞くことができるようにと祈っておられるのです。
私たちの耳は、聞くべき言葉を聞いているでしょうか。神の恵みの言葉に開かれているでしょうか。聞くことがなければ語ることもできません。私たちは度々、言葉で人を傷付け、同時に自分も傷付いています。言葉は、互いに交わり、愛するために神から与えられた賜物です。しかし、私たちの語る言葉は、逆に人を傷付ける凶器にもなってしまいます。どうして、そういうことが起るのでしょうか。
それは、私たちの心に憎しみや嫉妬があるからです。人を生かす 神の言葉を私たちが知らないからです。それを聞くことができないのは、み言葉に耳を塞いでいるからです。
神の言葉。それは、私たちを真実に生かす命の言葉です。同時にそれは、私たちの罪を指摘し、悔い改めを求める言葉でもあります。神の言葉によって私たちは自分の罪を示され、悔い改めと方向転換に導かれるからです。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1・15)これは、福音宣教を始められたイエスの第一声でした。私たちの悔い改めがなかったら、何も始まらないのです。神の言葉が語られても 救いの言葉にはならないのです。耳に心地よく、自分の思いに合致する言葉なら自分を変える必要さえないでしょう。神の言葉は、私たちを甘やかす言葉ではないのです。むしろ、私たちの心を刺し貫くものです。だから私たちは耳を塞ごうとします。イエスの言う「耳を塞がれている状態」とはそういうことです。本当に聞くべきことを聞こうとしないゆえに、本当に語るべきことを語ることもできない状態…。それが私たちの姿なのです。
このような私たちの耳を開くために、イエスはうめきをもって執りなしておられます。「エッファタ」。それは「開け」という意味です。どのようにして、何に向かって開かれるのでしょうか。単に、耳が聞こえるようになれ というだけのことではありません。自分にとって心地よい言葉しか聞こうとしない、そのような私たちの思いが打ち砕かれ、そこから解放されるように という願いが込められているのです。
第1朗読で預言されているイザヤの言葉は、イエスによって実現された救いです。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで 荒れ地に川が流れる」(イザヤ35章)
この「聞こえない人の耳が開き、口の利けなかった人が喜び歌う」ということが、イエスによって実現しているのです。ですから人々は驚きながら語ります。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」。
神の言葉を聞いても、単なる人生訓のように受止めているなら、私たちの耳も塞がれています。本当に聞くべき言葉を聞いていないのです。このように、自分の力だけでは、本当に聞くことも 話すこともできない私たちですが、イエスが耳を開いて下さるなら、十字架の言葉を私たちの心に響かせて下さるなら、そして聖霊が 今も深いうめきをもって執りなし祈って下さっているなら、私たちは本当に語るべき言葉を語り、聞くべき言葉を聞くことができる。これは主イエスの約束です。そこに、イエスによる救いのすばらしさがあります。
私たちは、恵みによって導かれ、イエスこそまことの神であり、救い主であることを知らされています。救いの恵みを喜ぶ信仰に招かれているのです。その恵みの中で、他の人をも 福音の喜びに導くものとならせて頂けますように…。