「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。当時は、夫のみが離婚する権利を持っていました。ファリサイ派の人々は、律法ではどうなのかとイエスに質問しているのです。律法に精通しているはずのファリサイ派の人々が、どうしてイエスにこのような質問を…、その答えはイエスを試そうとしたからである」(2節)という言葉にあります。律法の専門家と自負していた彼らは、イエスがどのような返答をするかを試していたのです。イエスの答えを聞いて それに従って歩もう… などと考えのではありません。イエスを窮地に追い込むためです。それを知っていたイエスは 逆に、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と聞き返します。「モーセは離縁状を書いて離縁することを許しました」(申命記24章1~4)。ここで注意したいのは、ファリサイ派の人々は、イエスを試すために自分たちの主張したいことの根拠となる言葉を聖書から取り出し、イエスに投げかけているということです。

申命記の言葉を利用しながら、自分たちの思いを主張する人々に対してイエスは「あなたたちの心が頑固なので、モーセはこのような掟を書いたのだ」と言っています。人々の心の頑固さゆえに このように書かれているのであり、そこ律法の目的、頂点があるのではないということです。(人々の頑固さについては、最後にお話しすることと関係があります。)イエスは続いて言われます。

「神は、天地創造の初めから 人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。二人はもはや別々ではなく 一体である。従って神が結び合わせてくださったものを人は離してはならない」。

創世記は、創造物語を通して 男と女に創られている人間の神秘を強調しています。アダムを造られた神は「彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2・18)と言われます。そこで、神は人のあばら骨から女を造り、人のところに連れてくるのです。すると、人は「ついに、これこそわたしの骨の骨、肉の肉」と言っています。この言葉は、相手が自分と同じ本質を持つ 同質の存在である、という意味が込められています。同じ本質を持つ存在だからこそ、向かい合って共に生きることができるのです。

人は、あらゆる動物を探しても その中に本当の意味で「自分に合う助け手」を見出すことは出来ませんでした。人間と動物は異質なものだからです。しかし、人間は皆 同質の存在です。女性が男性のあばら骨から造られたという表現も 上下関係ではありません。同じ人間として、互いに向かい合い 助け合って共に生きて行く相手を 人はついにここで見出したと言っているのです。天地創造の初めから、神は人間をそういうものとして創造されました。そのような意味で、一人の人間が誰かと出会うことは、お互いの人格と向かい合って生きていくという神の意志に基づいた出会いであり、それは神の神秘に属することなのです。聖書はそこに、互いの全人格的結びつきを見ているのです。一方が もう一方を呑み込むのではありません。イエスは出会いの本質が何であるかを教えておられるのです。聖書は、人間が神にかたどって造られた存在であると語りますが、それは「他者との出会い、交わりに生きることができる」…それが 人間の特徴であるということです。

 エフェソ書には、結婚をキリストと教会の結びつきになぞらえて書ている箇所があります。「あなた方は、キリストに対する畏れをもって 互いに仕え合いなさい」(エフェソ5・21以下参照)。キリストが教会のためにご自身を与え、教会を愛されたように愛すること。それゆえに、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。わたしはキリストと教会について述べているのです。あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい」(31以下参照)。

 キリストと教会が愛によって一つであるように、あなた方も一つであって欲しいという神の思い。… そのような関係は人間が努力して造り出せるものではありません。神と人との人格的出会いが基本にあって初めて生み出されるものです。自分自身を愛するように相手を愛する愛まで高められなければなりません。結婚の神秘は、キリストが教会を愛し ご自身を与えてくださったその愛を具体的に現すものです。しかし、人間の限界を日々 実感しながら生きている私たちは、このようなイエスの教えを聞いて戸惑います。自分自身にも 人につまずきを与えながら歩んでいる私たちの現実からは、あまりにもかけ離れた話しにしか思えないからです。

大切なことは、このみ言葉を律法として受止めてはならないということです。たちの内に起こる、イエスの教えに対する戸惑いは、福音の教えを律法や掟として聞いてしまうことにあるのです。ファリサイ派の人々の間違いもそこにありました。ともすれば、人間は神の言葉を自分に都合良く理解し、それを救いのための掟にしてしまう。… それは、周りの人を神に代って裁くことです。そうすると、福音の本質とは全く異なる結果を生んでしまうのです。それがイエスの言う「心の頑なさ」です。神の言葉を素直に受け入れることのできない私たちの弱さがそこにあります

それに気付かせるためイエスは、弟子たちの目を子供たちに向けさせます。弟子たちにとって子供は煩わしいだけの存在であったかもしれません。イエスに触れて頂こうとする親たちの思いを制止する弟子たちに対してイエスは子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。…子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と語っています。イエスはここで、祝福を求める親たちの思いを そのまま受け入れているのではありません。イエスが目を向けておられるのは親たちではなく子供たちなのです。そして「神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃっているのです。

神の国、それはイエスの福音の中心です。宣教の初めからイエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語りました。その内容は、神が恵みのうちに私たちを守って下さっている、そのような時が今やイエスを通して実現しようとしている、ということでした。イエスがなさった数々の癒しの奇跡は、この神の恵みの現れでした。イエスは、神の国を人々にもたらすために来られた方です。その神の国、神の恵みの支配に与ることができるのは、子供のような者たちなのだ と主はおっしゃっているのです。

 それはどういうことでしょうか。子供のように純真な者、汚れを知らない者でなければ、神の国には入れない ということでしょうか。イエスは、決して子供を理想化してこのようなことを語っているのではありません。純真な者、汚れを知らない者になれ ということではなく、私たちが神の国を受け入れる者となるための模範として子供を示しているのです。しかし、この「神の国を受け入れる」という言葉も注意が必要です。イエスが、子供たちを通して見ておられるのは何でしょうか。この場合の「受け入れる」は、与えられたものを受けるという子供の受動的な面を言っています。ここに出て来る子供たちは、親に連れられて来た子供たちです。自分の意志でイエスのもとに来たわけでもなく、自分の意志でイエスの祝福を求めて来たわけでもありません。イエスの語る神の国の意味を理解し信じている、というのとは少し違います。

この子供たちは、イエスの祝福を ただ受け入れているのみです。これだけ良い事をしたから、これだけの正しさを生きてきたから、これだけたくさん奉仕しているから…、だから 私を祝福して下さい、と要求しているのではなく、ただ まわりの暖かな援助に期待して生きるしかない存在です。イエスはそのような子供たちを喜んで迎え、抱き上げ 祝福しておられるというところが 今日の福音の重要なところです。イエスが子供たち一人一人を抱き上げて下さった…、それは、親たちが期待していた以上のことです。親たちは、イエスに触れさせたいという思いで子供たちを連れて来たでしょう。しかしイエスは、子供たち一人一人をご自分の腕に抱き上げ、それぞれの人生全体を祝福しておられるのです。

 ここで言われていることは、神の国が どのようにして私たちにもたらされるのかということです。神の国の恵みに与るには、何らかの資格や条件が必要なのではありません。逆に、子供のように無邪気で素直な者でさえあれば…ということでもないのです。自分の中には、神の国に与るに相応しい条件など一つもないのに 神のみこころによって、私たちは神の国に迎え入れられているのです。イエスはそういう恵みを私たちに与えようとしておられます。

この時、イエスが 弟子たちを見て憤ったのはなぜでしょうか。弟子たちが神の国の恵みに与ることができているのは、彼らが立派だからではありません。それは、イエスが彼らを選び、招いて下さったからです。自分の中にどんな資格があるか、というようなことにおいては何もないのです。そのことが分かってない弟子たちは、まるで自分たちは立派な者、恵みにあずかる資格のある者であるかのように、他の人々を斥けようとしているのです。その弟子たちの姿に、イエスは憤っておられるのです。 神の国に入ること、神の恵みのうちに生きることは、私たちの立派さや相応しさによるものではありません。繰り返しますが 神の無償の選びと招きに関係する恵みの出来事なのです。

そもそも、イスラエルの民が神に選ばれ 宝の民とされたのは、彼らが他の民族と比べて数が多かったからとか、立派な民だったからではなく、むしろ 他のどの民よりも貧弱だったからである と申命記で強調されています。イスラエルが選ばれて神の民とされたのは、ひとえに彼らに対する主の愛のゆえだったのです。(申命記7章6節以下参照。)主はこの愛のゆえに、彼らをエジプトの奴隷状態から解放し、ご自分の宝の民となさいました。イスラエルには、他の民族に対して誇れるものは何一つありません。また 他の人々を見下す根拠もありません。出来ることはただ一つ。神の選びの恵みと愛を感謝して受止めて生きるだけです。「子供のように、神の国を 素直に 喜んで受け入れる者であれ!」とは、まさに そのことを言っているのです。  

 子供がそのままで、神の国の恵みに与るのに相応しい資格を持っているということではありません。彼らは 信じることの意味も分らないまま、与えられるものをただ受けるのみの存在です。そのような子供にも洗礼が授けられ、神の民の一員とされ、神の祝福が与えられる。それこそ、神の国の恵みを最も相応しく表わしている姿と言えるでしょう。それは、成人してから洗礼を受ける場合も同じです。何の資格も相応しさもない私たちが、イエスの十字架の死と復活によって成し遂げられたゆるしの恵みを信じ、そこに身を委ねる時、私たちの人生全体が主のみ手の中で祝福されたものとなる…そこに洗礼の恵みの深い意味もあります。

私たちは、神の言葉を素直に受け入れることのできない頑なさを持っています。神のゆるしの言葉さえも、用い方によっては裁くための道具ともなりかねません。その結果、福音の本質からそれてしまうのです。そのために 見失ってはならない大切な事、それこそがイエスの十字架なのです。このような私たちのために、イエスが十字架に向かって歩まれたという事実なのです。イエスによって与えられるゆるしを知ってはじめて私たちは、キリストと教会が切り離すことのできない愛によって結ばれていことを知り、その同じ愛によって 一つにされ、あるがままで神の国の証しを生きる者とされて行くのです。そこに、本当の喜びがあります。罪人の集まりである地上の教会が、イエス・キリストを通して天上の教会と これほど強い絆で結ばれていることを思うと 新たな驚きを覚えます。