「なぜ、あなたの弟子たちは 昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」。これは、衛生問題の話しをしているのではありません。弟子たちが宗教儀式を行わないで食事をしているとファリサイ派の人々は非難しているのです。彼らには、「昔の人の言い伝え」と呼ばれるものがたくさんありました。それらは、もともとは神のみこころに従って生きたいという熱意から生まれたものです。神への愛を観念的な事としてではなく、具体的な生活において実践しようとするところから生まれた習慣でもあったのです。モーセの律法を現実の生活に適用したものにしたかったのです。もともとは良い意向で始まったものでありながら、いつの間にか細かい規定が定められ、そのために人々は苦しむことになっていたのです。それは本来の意味が忘れられ、規則を守ること自体が目的となってしまった事からくる危険です。イエスは、イザヤの言葉を引用しながら 私たちが陥りがちな危険を語っておられるのです。

「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。あなたたちは、人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。

 自分は掟をきちんと守りながら生きている…。そういう思いが強くなると、どうしてもまわりと自分を比較しながら、守っていない人を非難したくなる。しかし、そのうちに一番大切なことを忘れ、神の愛からも ゆるしからも遠く離れてしまい、その惨めな姿に気付くことさえ難しくなります。ここでイエスを非難しているファリサイ派や律法学者の人たちは、遠く離れたエルサレムからわざわざ集まって来ました。イエスに会いたくて、話しを聞きたくてやって来たのではありません。非難するためにやってきたのです。本当はイエスと弟子たちを通して神の恵みが溢れるほどに現れているのに、そこには目が行かないのです。

 これは、時代に関係なくどこにおいても起ることです。行いとしては完璧なまでにしっかりと生きているはずなのに、心は神から遠く離れているとしたら、それは自分自身の中に問題があるからです。神の豊かな恵みの中で生きるようにと、私たちはイエスご自身に結びつけられているのに、その恵みを受け取れなくなってしまっているとしたら それはもったいないことです。

 それでは、私たちはどうしたら良いのでしょうか。重要な事はイエスが言われたように、形の上でどんなに掟を守っても、神の心を知らなければ意味がないことに気付く事です。私たちは、神に心を向け、神の思い聞き取らなければ 神の言葉を聞いたことにはなりません。文字だけを見ていても「あなたがたは神の言葉を無にしている」と主は言われるのです。神の言葉に耳を傾けるということは、私たちに向かって語りかける神の思いを意識することです。神は私に何を語りかけておられるのか。そのことを思い巡らすことが重要なのです。

何が人を汚すものなのか、これは当時のユダヤ人たちにとって 大きな問題でした。現代の私たちには意外と思われるかも知れませんが、遠い昔の話しではありません。時代と共に、自然になくなるものではないからです。私たちは、イエスの福音を聞くことなしに、そのような生き方から解放されることはないのです。

エルサレムから来た人々が弟子たちを批判しているのは、自分たちの中に そのような現実があったからです。これを理解するためには、旧約聖書にある細かい掟が、衛生の問題ではなく宗教的問題であることを知らなければなりません。

弟子たちは、宗教的に汚れたことをしていると彼らには写っていた訳ですから、イエスがそれを見過ごしているとしたら、イエスは神の教えを正しく説く者ではないと彼らは考えているのです。彼らが批判していることは、昔の人の言い伝えに従って弟子たちが歩んでいないということでした。しかしそれは、律法に記されていることではなく、昔の人々から言い伝えられてきた教えです。それを無視していると 彼らはイエスを批判しているのです。それに対してイエスは、「あなた達は、神の掟を捨てて 人間の言い伝えを固く守りながら、それによって神の言葉を無視している」とおっしゃっています。大切な事は神のみ心を知り、それに従うことであって、人間の言い伝えや しきたりにこだわることではない と言われたのです。もちろん、人間の言い伝えであっても、それなりの理由や必然性があって生まれるものですから大切なものではあります。しかし、時代や状況が変化する中で、その重要性が変わっていくものでもありますから、神の心を無視してまで そこに固執すべきではないとイエスは言われるのです。

 ここで起こっていることは何なのでしょうか? それは、私たちと どんなかかわりのある事なのでしょうか? 

ここで起っている事は、実は私たちも体験していることです。人を批判的に見てしまう時の問題は、その批判が神のみ心に基づいているか、それとも人間の言い伝えやしきたりに固執してのものなのかを整理して見つめなければなりません。人間には、自分たちがこれまで大事にしてきたことを そのまま守り続けようとする傾向があります。伝統を守ることはもちろん大切なことですが、同時に、自分たちがしてきたことを変えたくない、という思いが働くこともしばしばです。私たちは、自分の習慣を変えることは苦手だからです。ファリサイ派や律法学者たちに起こっていた事はそういうことでした。神の言葉は、人間を常に新しく造り変えていきます。み言葉に聞き従うとは、自分が変えられることを 痛みを伴いながら受け入れることなのです。

 ファリサイ派や律法学者たちのように、自分たち以外の者を「汚れている」と思う気持ちは、裏返せば 自分は「清い」と思っているところからきています。そういう考え方は、科学的、合理的な考え方が広まったからといって自然になくなるものではありません。私たちも、自分を清い者の立場に置きながら 知らず知らずのうちに まわりを裁いているかも知れません。それはいつの時代でも起こり得る事です。ですから 本当の汚れの意味、そしてそれがどこから来るのか、というについてイエスは語るのです。

「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もない。人の中から、つまり人間の心から悪い思いが出てくるのだ」。そして、21節22節で語られているものが人を汚すと語られます。それらは、人の心から出る悪い思いのことです。それこそが、人を本当に汚れた者にするのです。

 それでは、私たちはどうすればよいのでしょうか。「汚れは外からではなく内側から、人の心の中から生じる。だから、外側ではなくて 心の中をこそ洗い清めなさい…」。そのようにイエスは語っているのでしょうか? いいえ、それも違います。心の内側を自分で洗い清めることなど 人間には初めからできないことなのです。

ここで、宣教開始当初から イエスが何を語ったかを思い起こして下さい。それは、「時は満ち神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉でした。神の国は近づいた。神の愛による出会いが今や実現し、向こう側から あなたがたを捉えようとしている…。それがイエスの教えの根本でした。そこに救いがあるのです。それは、私たちが自力で 自分の心を洗い清めることによってではなく、神があるがままの私を受け入れ、包み込んで下さることによって実現し、与えられるものなのです。それが、イエス・キリストによって今や実現されようとしている神の国、神の愛による支配という言葉の意味なのです。

それが可能となるために、イエスは私たちと同じ人間となってこの世に生まれました。キリストの十字架の死によって、私たちに救いがもたらされる。それが「福音」です。「悔い改めて福音を信じなさい」とは、自分の力で自分の心を洗い清めてではなく、キリストの十字架による ゆるしの福音を受け入れ、その恵みのもとに生きなさいということです。イエスは、その恵みの目に見える印として洗礼の秘跡を定め、また その恵みを 私たちが実際に生きれるよう、聖体の秘跡を残して下さいました。

それは 私たちの目、自分を見る目が変えられることから始まります。イエスによる救いに与る者は、自分が神からどれほど愛されているかを思い起こします。神の恵みの中に生かされている自分自身を見つめることができるのです。その時、私たちの 隣人を見る目も変わってくるでしょう。人と自分を比較して、どちらが上か下かで一喜一憂するのではなくて、自分と同じように神の恵みの中に生かされている仲間として 隣人を見ることができるのです。

 私たちは、自分の感情や気持ちに合う理論をこしらえることが得意です。理論的、客観的な主張をしているようでいて、実は自分の思いや感情に基づいて語っており、理論や道理を用いて人を批判しているようなことがいかに多いことでしょうか。そういうところに 私たちの陥りやすい弱さがあるのです。そこから解放されて、本当に理性的に考える者となるためには、自分の中で道理を組み立てるのではなくて、神がイエス・キリストによって示して下さった方法によって考えることです。イエスが、十字架の死によって私たちを受け入れ、ゆるして下さっている。だからこそ私たちは、旧約で語られている清めの儀式や律法を乗り越えることができるのです。そして、イエスが私たちを見つめているのと同じ視点から、この世界の不完全な現実さえも 希望を持って受止めることができるのです。