「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」。弟子たちの言葉です。イエスの教えが理解不能だと言っているのではありません。彼らにとってそれは、受け容れ難いことだったのです。

 四週間前(17主日)の福音は、「五つのパンと二匹の魚」の奇跡の話しでした。そこから、このような特別な力を持つイエスを自分たちの王にしたいという動きも生まれました。なぜなら、外国の勢力や貧しさからの解放を求めていた人々にとって、イエスのような人物を王にして独立できたら…という思いは切実なものであったからです。そのような人々がカファルナウムまで追いかけてきたのです。この人々にイエスが語られた言葉は、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(26‐27)ということでした。そこから「わたしは天から降ったパンである」という話しが始まり、そして弟子たちの多くが「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言う言葉につながっていくのです。

 「天から降って来たパン」。それはかつてイスラエルの先祖が荒野で食べたマンナのような一時的に飢えをしのぐものではなく、永遠の命を与えるパンである とイエスは語ります。「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(51節以下参照)。

  このような言葉を聞かされたら、つまずいたとしても不思議ではありません。しかし、彼らがつまずいたのは、単に理解不能だったからではなく、その言葉を受け容れたくなかったからです。それは彼らが求め、期待してきたことと大きく異なっていたからです。

 もし、イエスが「わたしは奇跡によって、あなたたちのために、いつでもパンを与えよう」と約束したならば、誰もつまずかなかったでしょう。「あなたたちが欲しい物を何でも与えるから…」と語ったなら、彼らはつまずかなかったでしょう。また、終わりの日の復活などではなく、「今、すぐに あなた方を外国の支配から解放してあげよう」と語ったなら、誰もつまずくことはなかったのです。しかし、イエスはあくまでも永遠の命について、神との交わりについて語られます。それで人々は「これは、実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言っているのです。自分たちが期待したような救い主ではなかったというイエスへの失望感がそこにあるのです。

 つぶやいている人々にイエスは言われます。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・」。その意味は、「あなた方は、これから なおさらつまずくことになる」と言いたかったのではないでしょうか。彼らが見ているその先にはもっと大きなつまずき、十字架が待っていたからです。「人の子がもといた所に上るのを見るならば」というのは、天に帰るということです。しかもそれは十字架にかけられて死ぬ姿です。もし、目の前のことだけを求めているならば、いずれ十字架が来たときに つまずくことは避けられないことだからです。

 「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」。永遠の命である神の命、それこそ、私たちが聖霊の助けのもとに求めなければならないものなのです。

 イエスは、この世に属するものを「肉」と呼ばれます。朽ちていくこの地上のもの、今も人々がひたすら求め続けているもの、それがイエスの言われる「肉」です。群衆は「肉」を求めて、はるばる遠くからイエスのもとに来ました。しかし、肉は本当の意味で命を与えるものではない とイエスは言われるのです。

 どんな思いでイエスがこれを語られたか 考えて見てください。イエスの周りには常に飢えた人、病気の人、見捨てられた人、抑圧された人、様々な問題に押しつぶされそうになっている人たちがいました。それらの人々の苦しみも悲しみも十分知った上で イエスは語っているのです。イエスが「肉は何の役にも立たない」と敢えて言われるのは、どうしても伝えたいことがあったからです。それは、永遠なる神に思いを向けて欲しいからです。その方は、永遠の命を私たちに与えたいと望んでおられる方だからです。たとえすべてを失ったとしても、なおその人を生かす命。何ものによっても奪われることのない本当の命を与えたいと本気で望んでおられる、その方が私たちの父なる神であるということです。

 そのためにイエスもご自分の全てを与えるつもりです。「わたしの肉を食べなさい、わたしの血を飲みなさい。」それは、わたしのからだを踏み越えて 父なる神のもとまで 何としても 辿り着きなさい。恐れてはならない。」そう言って、ご自身を差し出しておられるのです。

 ヨハネ福音書が書かれた紀元1世紀終り頃の教会の姿がこの話しの根底にはあります。教会に加わっていた人々の中に、脱落し、離れ去っていく人々、信仰を失い、教会の一員として歩むのをやめてしまう人々も出てきました。ヨハネ福音書はその現実を深い痛みをもって書き記しています。「イエスを救い主」と信じる者は会堂から追い出されることもありました。そのような中で、「あなた方は何を求めてここに来たのか」と問うておられるのです。

十二人の弟子たちにも聞いています。「あなたがたも離れて行きたいか」。誰もが 一度はこの問いの前に立たされます。しかし、間違ってはいけません。これは文字通り「あなたがたも離れて行きたいか?」と聞いているのではないのです。そうではなくて、「あなたがたは、きっと、わたしのもとに 留まってくれるはずだ。お願いだから どうか あなたも わたしのもとに留まっていて欲しい…」という イエスの思い、一人ひとりへの篤い信頼の言葉なのです。

 ペトロは答えました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」。この時のペトロが、どれほどイエスの思いを理解していたか、それは分かりません。この信仰告白は、神が聖霊によって与えて下さるものです。人間が考えた結論としてこのイエスを信じる、というものではないのです。私たちがなすべきことは、自分の考えや感覚、理性による判断という肉なる思いへの固執ではなく、聖霊の働きを祈り求めることです。イエスの本当の姿を私に示して下さい、と祈り求める心です。その時、私たちもペトロのように、聖霊による信仰告白へと導かれるのです。

信仰は神から与えられる最大の恵みです。自ら志願してキリスト信者となるのではありません。ここに呼び集められている私たちも、イエスに選ばれてここにいるのです。信仰を求めていくこと自体、選ばれているからこそできる恵みです。

多くの人々が去って行く中で、「あなたがたも離れて行きたいか」というイエスの問いに対して「あなたのもとにしか、私たちの行くべき所はありません。あなたこそ、永遠の命の言葉を持っておられます。不信仰な私を助けて下さい」という信頼をもってイエスに留まる人たちの共同体、それが教会である、ということがここで示されているのです。  

 「わたしのもとに留まってくれる」と信頼しながら、主は今日も私たちに語りかけてくださいます。私たちが、この救い主に求める救いとは何なのでしょうか。人間イエスによる救いでしょうか。それとも神の独り子なるイエスによる救いでしょうか。コロナ禍のためミサに与れない今だからこそ、主との新たな出会いを深めるチャンスにしたいものです。