「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさ。」とイエスは語っています。しかし、この言葉どおり旧約聖書に書かれているわけではありません。これに関係する箇所は、「復讐してはならない。恨みを抱いてはならない、自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」というレビ記19章18節の言葉です。ここで、「隣人を自分自身のように愛しなさい」と言われていますが、「敵を憎め」という言葉は出てきません。

イエス時代のユダヤ人たちにとって隣人とは、自分の仲間や同胞だけを指しました。それ以外の人々は、皆敵と見なされていたのです。「隣人を愛しなさい」という教えが、いつの間にか「隣人のみを愛せ」という解釈に変わり、そこから隣人や身内以外の者はみな敵と見做せ」という教えに変わってしまったのです。そのような誤った律法解釈に対してイエスは注意を喚起しながら、隣人とは誰であるかを教えているのです。  

 このように、自分に都合良く理解しようとする傾向は、彼らだけの問題ではありません。私たちもまた、同じことをしているのです。だからイエスは言われます。「しかし、わたしは言う。あなたがたは敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と。  

 「隣人を愛する」とはどういうことでしょうか。イエスによれば、それは「敵を愛する」ことだというのです。なぜなら、私たちの考える隣人は、時として敵ともなるからです。私たちにとっての隣人とは、血のつながりや仕事のつながり、また友情や愛情で結ばれた人々のことと普通は考えがちです。それらのつながりの外にいる人々を敵と見做しがちです。果してそれは正しいことかどうか、とイエスは問うているのです。

 親しい友情に基づいた関係であっても、ちょっとした誤解で崩れ去る場合があります。深い愛情、強い絆に結ばれていると思っていた関係が、こんな些細なことでぶつかり合い、互いを傷つけてしまう…。私たちの考える隣人とは、状況によってこんなにも変わりやすいものなのです。 

 隣人が誰であるかを、イエスは「善きサマリア人のたとえ」(ルカ10章25節以下)においても示されました。そこで隣人となったのは、ユダヤ人たちから嫌われているサマリア人でした。強盗に襲われ、倒れている人の介抱をしたあのサマリア人の姿こそ、本当の隣人愛を生きた模範だと教えてくれたのです。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という言葉はそのことを示しています。  

 「敵を愛しなさい」…。なぜ、そこまでの生き方が求められるのでしょうか。それは、天の父の望みだからです。その方は、私たちを大切な存在として愛しておられる方です。それゆえに、あなた方もこの方の望みと愛を生きる者であって欲しいというイエスの願いなのです。神は、私たちが善人であろうと悪人であろうと恵みの雨を降らせて下さいます。善人だけを愛するのではありません。これは驚くべきことです。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」。神を知らない人でも、自分の仲間を愛することくらいは知っている。まして、神に出会わせて頂き、神の愛の心に触れたあなたがたが、この方の望みを生きたいと思うのは当然のことではないか…、とイエスは語っているのです。  

 この言葉を聞く時、注意しなければならないことがあります。それは、私たちは、どうしても自分を「正しい者、善人」の位置において考えてしまうということです。神は、上からの目線に立って「敵を愛せと」勧めているのではありません。神は、私たちの不完全さをよく知っておられます。神は、このような私たちを心に留めておられます。本気で私たちの隣人となり、支えようとしておられるのです。イエスはそのために人として生まれ、同じ体験をして下さいました。イエスの十字架の苦しみと死は、命がけで私たちを大切に思う神のみこころの表れです。あの十字架から恵みの力を頂くのです。それでも愛を生きれない私たちが、倒れながらも、躓きながらも、失敗と諦めの体験を繰り返しながら、それでも、少しでもイエスの思いに近づきたいと願う気持ちを神は祝福し受け止めて下さるのです。成功することだけが恵みではりません。愛を生きたくても生きれない、その失敗の連続の中で神の心に触れる事ができたなら…、そこで私たちは沢山の事を学びます。それは大きな恵みです。「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」というイエスの言葉が胸に響きます。頑張らなくて良いのです。私の弱さを含めた、ありのままの自分を通して今、神は二度と繰り返せない不思議な恵みの体験をさせて下さっているのです。 

イエスの言葉は、「敵をも愛するほどの、立派な人間になれ」という程度の意味ではありません。自分の努力で頑張って完全な者になる事が目的ではないのです。神の愛の中にある完全さ、人の思いを超えた計らいに信頼して歩む信仰を生きて欲しいという願いです。

「迫害するもの、自分を傷つける者のために祈れ」…この言葉も、私たちに注がれている神の完全な愛を前提にしているからこそ言えることです。たとえ愛する者が裏切っても、神は待っていてくださる方です。それが、神の完全な愛です。この父の愛に支えられなければ、自分の努力と決意だけで愛を生きれるほど現実は甘くありません。イエスの愛に支えられながら、導かれながら歩む時、私たちの弱さや限界も恵みに変えられます。完全な神の愛が、聖霊の働きとして私たちの中で動き始めるのです。それは、人智を越えた神のみ業です。御父が完全な愛を持っておられるからこそ、その方と同じ愛を生き抜いたイエスの生涯があるからこそ、私たちは不完全な者でありながらも、その限界ある自分を通して、神の愛を輝かせることも出来るのです。何という不思議な、神のなさり方でしょうか。

神の愛は、貧しい私たちの祈りを通して始まり深められます。全ての人々のために、イエスは死なれました。ゆるすことが出来ない私たちを裁くのではなく、「それでも、わたしを信じて祈りなさい。ゆるせないあなたのために、わたしも祈っていることを忘れないように…」と招くイエスの姿を福音は語っています。このイエスの祈りに、私たちの祈りが合わされるところから一人ひとりの祈りと、一人ひとりの信仰が生まれます。