「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。完成するためである」。「律法と預言者」というのは旧約聖書のことです。イエスは、旧約で約束されているみ言葉を完成させるために来られた存在です。
救いの約束は、すでにアブラハムを通して示されていました。「地上の諸国民はすべて、あなた(アブラハム)の子孫によって祝福を得る」(創22章18)。この言葉を前提にしてマタイは、福音書冒頭において「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と書いています。そしてイエス復活後、弟子たちを離れる際、彼らに語った言葉は「あなた方は行って、全ての民に福音を宣べ伝えなさい」という命令でした。かつて、アブラハムに約束された「諸国民に及ぶ神の祝福」がこれによって実現するのです。旧約において語られた神の約束は、今イエスによって諸国民に及ぶ救いの恵みとして実現しているのです。そのイエスが、私たちに念を押している言葉があります。それが今日の福音です。
「言っておくが、あなたがたの義が、律法学者やファリサイ派の人々の義に勝っていなければ、あなたがたの働きはどんなに頑張っても虚しい…」と。厳しい言葉です。マタイは、救いの完成がどこにあるのかを見るように促します。私たちにとっての義とは何でしょうか。
「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)これはイエスが亡くなる前の晩、弟子たちに語った言葉です。私たちに示された目標も義もここにあります。
人間の持つ愛の中で、母の愛は最も大きな愛であるとよく言われます。この原稿を準備している最中、あるニュースが入ってきました。トルコ・シリアで起こった大地震の最中、瓦礫の中で産まれた赤ちゃんのニュースです。しかし、赤ちゃんは母親とへその緒が繋がったまま瓦礫の中で泣いていましたが、母親はすでに亡くなっていました。たくさんの嘆き叫びの中で、壊れた瓦礫の中で産まれる赤ちゃんの泣き声…。何と痛ましいこの世の現実、どのような思いで母は最後の息を引き取ったのでしょう。同時にここから、自分の命をかけて我が子を世に生み出し、そして死んでいく母の愛の強さも伝わってきます。それは限りなく尊く、神の愛を写し出すものでもあるのです。
著名な心理学者エイリッヒ・フロムは言いました。「母親の愛は無条件だ。母の愛を得るために子供がしなければならないことは何もない。しいて言えば、生きているということ。そして母親の子供であるという、その事実だけで十分である」。
神の愛とともに、母の愛も永遠です。イエスは、人間の限界を超える大きな愛をもって私たちと関わってくださいました。そして言われました。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」と。(ヨハネ15・9)このイエスの愛に支えられながら、私たちも愛を生きるのです。それは人間の力を超えることです。しかし、それが可能である事をあなたの人生においてあなたなりに体験しなさい、とイエスは語られたのです。「敵を愛し、あなたがたを迫害する者のために祈れ…」。
そんなことが本当に可能なのでしょうか。地上におけるイエスの最後の祈りは、自分を十字架につける者たちのための祈りでした。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分かっていないのです…」。父なる神は、このイエスの祈りを受け入れました。これによって、キリストを信じる全ての人たちの完全な赦しと救いが約束されているのです。この無条件の愛に留まって欲しいというのが、私たちに対する神の心からの願いです。キリストの愛は、私たち一人ひとりのために死ぬ覚悟で関わってくださった愛です。これによって私たちは、愛の持つ偉大な力を知りました。これほどの愛によって生かされていることに、私たちは気づいているでしょうか。
パウロは、ローマ人への手紙で言っています。「死も、命も…どんな被造物も私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことは絶対にできない…」。(ロマ8・38~39) 「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」と言われるイエスの愛がここにあります。死の力も、このキリストを支配することはもはやできないのです。
永遠に死なない方が、十字架を通して真の命を与え、永遠の愛をもって私たちを愛しておられる…。それが福音です。今の私たちにもこの招きの声が届いているでしょうか。この神の招きに応え、その愛に留まる人は幸いとイエスは教えているのです。
これは、私たちの立派な行いによって実現するのではありません。イエスによる十字架の死と復活がなければ何も始まりません。そのことを前提にしつつ、「わたしが来たのは、律法を廃止するためではなく完成するために来た」とイエスは語っているのです。イエスは、神への愛と隣人への愛に私たちの目標がある事を明らかにされました。(マタイ22章34以下cf.)これは、パウロも語っている通り、人間の知恵によって理解できることではありません。
「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、世界の始まる前から神が定めておられたものです。」
そうです。これは、隠されていた神の計画、秘められた神の知恵です。隠されていたとか秘められたという言葉は、人間が自分の力では到達できないものという意味です。そこに、人間の知恵と神の知恵の大きな違いがあります。人間の知恵は、人間に 理解できるものです。だから、互いを比較し合い劣等感を抱いたりもします。そういう優越感や劣等感を生むものは全てこの世の知恵です。たとえ信仰の名のもとにどんな偉大なことがなされようとも、他の人と比較してしまうならば、結局はそれもまた人間の働きで終わってしまいます。地上においては隠されている神の導きに気付きなさい、とパウロは語ります。しかもこれは、「世界の始まる前から神が定めておられたもの」です。私たちには理解できない、隠された、神秘としての神の知恵が、私たちのために、私たちが存在するよりも前から定められていた、というのです。この確かな力によって生かされ、支えられている…、あなたの人生は、地上においてこの神の愛を写し出すための人生であるように…というのが神の願いです。そのために大切な事は、神と親しみ、神を敬い愛する心です。神について何でも知ることが信仰の豊かさなのではありません。知識だけを優先する信仰には限界があります。自分が知っている以上に、神は私のすべてを知っておられる、そこに私たちの安らぎと平和があるはずです。それは、私たちに必要な幼子の心でもあります。それがなければ、成熟した大人の信仰にはなれないのです。
「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」(1コリ2・9)。これは、イエス・キリストの十字架の死と復活による救いの出来事からもたらされる実りです。私たちは、地上においてこの神秘を理解し尽くすことはできません。しかし、その恵みに支えられながら、安心して生きることはできるのです。