「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」…。考えてみれば不思議なことです。神である方が、悪魔からの試みを受けるとはどういう事でしょうか。この試練をイエスに体験させた御父には、特別な計画がありました。悪魔の最大の目的は、神の救いの計画を失敗させることですから、イエスが自分の使命を生きることを妨げようとしているのです。これに対してイエスは「サタン、退け。あなたの神である主を拝み ただ主に仕えよ」という申命記の言葉を引用しながら対抗しています。(マタイ4:10参照)
私たちを苦しめる悪の力に打ち勝つため、神の御子自身が私たちと同じ人間になられました。私たちを悪の働きから解放するため、聖霊が神の御子を十字架に向けて歩ませるという事さえ起ころうとしています。ここまで、自分を犠牲にして私たちを救おうとする神の計画とは一体何なのでしょうか。
「救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであった」とヘブライ書(ヘブライ2・10)は語っています。イエスご自身、試みを受けて苦しまれた方だからこそ、試みを受けている私たちを理解し助けることができるのです。私たちが経験する誘惑と同じパターンがイエスの誘惑にもあります。しかし、イエスは独特の方法で、これに打ち勝っています。悪の力は様々な誘惑を通して私たちを躓かせようとします。それでも私たちは、悪に打ち勝ったイエスの存在を通して希望を持って立ち上がることができる、という約束が与えられているのです。
イエスを誘惑する悪魔は、イエスが「神の子」である事を知っています。ですから、「あなたは神の子なのだから…、人を助けるためなのだから…」と語りかけながら、イエスの歩みを妨げようとしているのです。マタイ16章22節では、ペトロを通して神の計画とは別の考えをイエスに吹き込もうとする箇所もあります。多くの苦しみを通して、神の秘められた計画が実現されるという神の計画を弟子たちに打ち明けたイエスを、ペトロはわきへお連れして「主よ、とんでもないことです。そんなことは決してあってはなりません」と諫めました。この時イエスは振り向いて、「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず人間のことを思っている」と、厳しい言葉でペトロを叱責しています。イエスが神の子であるという事の本当の意味を理解する事なしに、私たちの信仰は成り立ちません。この方の十字架と復活を頂点として、神の救いの計画は実現し完成されます。
洗者ヨハネから洗礼を受けたイエスに神の霊が降り、「これはわたしの愛する子」と宣言されたイエスはその後、神の霊に導かれて荒れ野へ向かわれました。そこで体験された試みを通して、イエスが真の意味で救い主である事が明らかにされます。それは、かつて荒れ野で神に背いたイスラエルの民の姿とは対照的です。御父に対するゆるぎない愛と信頼を生きるイエスの姿です。この方と共に、この方が目指している所へ私たちは導かれて歩むのです。イエスは、あらゆる点において私たちと同様の試練に遭われました。イスラエルの民がエジプト脱出をした時の荒れ野を思い起こさせながら、私たちの歩むべき道がどこにあるのかを教えています。イエスの荒れ野の体験は、モーセに導かれてエジプトを脱出した時のイスラエルの人々の体験を思い起こさせます。「荒れ野」とは、何の慰めもない厳しい試練の場であると同時に、神だけが唯一の救いであることを体験させる場でもあります。イエス自らが体験した救いの道を通して、私たちが地上の命を祝福の体験に変えて生きるよう神は望んでおられるのです。
マタイは、旧約で預言されている救い主の姿を示しながら、イエスこそ 神が約束された救い主である事を示しています。イエスによって示されたメシアの姿とは、神の慈しみに絶対的な信頼をおいて、神のみ心を生きるメシアの姿です。イエスは最後まで、たとえ十字架上で死ぬことになろうとも、父なる神の計画にご自身を委ねました。私たちには決してできない生き方です。イエスが受けた誘惑は、私たちの救いが何であるかを教えてくれます。
「石がパンになるように命じたらどうだ」という誘惑…。根本的にこれは、人々がどのような救いを求めているか、ということと関係しています。人間が求めているものを通して神の子としての力を示し、その求めに応えて彼らの空腹を満たしてやれば、彼らは神の恵みを具体的に体験し、イエスが救い主であることを信じ、イエスに無条件に従うようになるではないかと悪魔は言っているのです。この悪魔の言葉は、人間の本質を見事に見抜いています。私たちがイエスに求めている救いとは結局はパンなのだ、と語っているのです。食べ物だけでなく、健康、お金、仕事、名誉…。そういうものを人間は求めています。その願いをかなえてやるのが、救い主として人々に受け入れられる最も早い方法だと悪魔は語っているのです。
確かに私たちは、そういうものを求めています。それらが与えられれば神は恵み深いと感謝し、与えられなかったら神は存在しないと思います。悪魔はそういう私たちの姿を知っています。ここで、私たちが考えなければならないことは何でしょうか。この世におけるご利益よりも、もっと大切なものを見つめていかなければならない、ということでしょうか。
私たちに求められている事は、神の言葉に耳を傾けることです。エジプトを出たイスラエルの民は、真っ直ぐ約束の地に入れたわけではありませんでした。「四十年の荒れ野の旅」がありました。その間、彼らは天からのパンによって養われる体験をしています。
神はご自分の民に、必要なパンを与え絶えず養って下さる方です。その歩みの中で、神は、敢えて私たちを苦しめ、飢えさせることもあり得るでしょう。その苦しみ、飢えの中で、本当に大切なものが何であるかを示されるのです。それが分らなかったら救いの意味も分らなくなるからです。ですから、「この世の利益や物質的なものを追及してはならない」と言っているのではなくて、神はもっと大きな恵みをあなたがたに与えようとしておられるという事です。それを実現させるためにイエスは、「石をパンに変えるような即物的な方法はとらない、それは神の救いを見失わせてしまうことになるから」と語っておられるのです。つまり、イエスは私たちを「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる者」とするための道を選び取られたのです。このことをしっかり見つめなければなりません。パンを求めること、これからの生活が支えられることは決して悪いことではありません。神は確かにそういう恵みも与えて下さる方です。しかし神は、パンよりもさらに大きな恵みを与えて下さる方です。それは、神のみ言葉によって生かされる恵みです。その恵みを与えるために、神はその独り子をこの世に与えて下さったのです。この恵みから私たちの目を逸らさせ、パンのことばかり求めさせようとしているのが悪魔の誘惑なのです。
信仰をもって生きることは、細かい規則や戒律に縛られて生きることではありません。神は、私たちの日々の歩みの中で、イエスによって語りかけ共に歩もうとしておられます。その語りかけに応えてイエスとの交わりに生きることが私たちの信仰です。イエスが悪魔の誘惑を退け、父なる神に信頼して歩んで下さったことによって、私たちも神の愛に信頼して生きる道が開かれました。
神からのしるし…、それはイエス・キリストの十字架の死と復活です。このしるしによってこそ私たちは、神からどれほど愛されているかを知らされます。私たちは、この神の恵みと愛のもとに置かれているのです。40日の四旬節はそのことを確認する恵みの時です。苦しみや悲しみの中でも、神と向き合い、神に問いかける事が真の祈りです。その交わりを神と共に生きる道が、イエスを通して今私たちに開かれているのです。