「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」(ルカ1・28以下参照)これは天使がマリアに告げた第一声でした。しかし、その後のマリアの生涯をみると、これは単純に「めでたい」話ではないことが分ります。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。「恐れることはない」と言われても これほど恐ろしい話はありません。ヨセフと婚約していたマリアのささやかな望みは、この天使の言葉によって打ち壊されてしまったのです。
婚約している娘が身籠もるということは、ユダヤ人社会においては石打ちの刑で殺されてもおかしくないほどの重罪です。マリアがそのことを知らなかったはずはありません。天使は「聖霊によって身籠もった」と告げていますが、誰がそんな言葉を信じるでしょうか。もし姦淫の罪として告発されれば有罪は免れない。仮にヨセフが告発しなかったとしても、全ては終わりです。しかし、その全てをマリアは受け止めました。そして「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。これがマリアの応答です。マリアに不安がなかったはずはありません。また恐れがなかったはずもありません。ヨセフとの関係が壊れてしまうことを考えたら、どれほど辛い決断だったか分りません。
複雑な思いを抱えながら、マリアはユダの山地へと急ぎます。エリサベトもまた神によって男の子を与えられた人だったからです。不妊の年老いた女が、ただ神の恵みによって身籠もった。その体験を持つエリサベトならば分かってくれると思ったことでしょう。いや、それだけではありません。それ以上に大切なことがあります。それは、神のみ業を語り合えるという幸いです。今、自分の身に起こっている現実を、信仰を持って語り合い確認する。そのためにも、マリアにはエリサベトに会う必要があったのです。
確かに、マリアの判断は間違っていませんでした。エリサベトこそ、この時のマリアが会うべき最も適切な人でした。「そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した」と書かれていますが、これも単なる日常の挨拶ではありません。大切な事は、深刻な事態に置かれていたマリアに対して、この時エリサベトが語った言葉なのです。それは、「あなたは女の中で祝福された方。胎内のお子さまも祝福されています」という言葉でした。
祝福は神のなさることです。神が、マリアと胎内の子をも祝福しておられる。そして、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう!」と語るエリサベトが見ているものは、困難な状況の中にありながらも確実に進展する神のご計画です。その神の隠れた御業を、信仰の目で共に語り合える仲間がマリアには必要だったのです。このエリサベトとの関わりがあって、「マリアの賛歌」が生まれました。
マリアは喜びに満たされて歌います。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」。ここで初めて、マリアの口から「喜び」という言葉が出てくるのです。しかし、事態は何も変わっていません。重荷が無くなったわけでもありません。それでもマリアは、人々を救おうとする神の思いを確認する中で、悩みが喜びに、不安や恐れが神への信頼に変えられていくのを体験します。
このマリアとエリサベトの姿に、私たちは何を見るでしょうか。それは、教会の姿です。悩みや問題について相談する場所なら、探せばたくさんあるでしょう。しかし、本当に必要なのは、神について語り合い、共に信じる交わりです。
ここでマリアは何を喜んでいるのでしょうか。「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と言った後、彼女は「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」と語っています。マリアは、主が自分に「目を留めてくださった」ことを喜び、だからこそ「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と語っているのです。ここでマリアが考えている幸い、それはもちろん彼女の個人的な幸いではありません。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、飢えた人を良い物で満たし、……」。マリアの目は、個人の小さな幸福にではなく、この世界の真っ只中で苦しむ人々にこそ向けられているのです。
マリアが見たこの世界は、どういう世界だったでしょうか。「思い上がる者」がひたすら権力や富を追い求めている世界、それは今日においても変わりありません。そのような世界にありながらも、神は諦めていないのです。私たちに約束されている神の国は、最終的に人間の権力や金が支配する世界ではなくて、神ご自身が愛と慈しみによって治める国です。それはいつか完成される神の約束です。マリアは、この世界の悲惨さに目を向けながら、そこに働く神の力強さを見つめつつ語ります。そこからは、「神は、私に目を留めてくださった」という言葉の真意が見えてきます。「自分はこの世においては取るに足りない小さな存在、しかしそんな私にも神は目を留めてくださり、ご計画の中で用いてくださっている、その主の計画に私も協力することができる…」。だからマリアは喜んでいるのです。マリアの生き方の中で私たちが注目しなければならないことは、神の救いの計画が自分と無関係ではないことを知って喜ぶマリアの姿です。
自分の幸・不幸だけを考えるならば、人生はまことに不可解なもの、重荷に満ちたものと言うしかありません。どうして私ばかりが、こんな目に遭わなければならないのか、こんなにも重荷を負わなければならないのか、と嘆かざるを得ないことだってあることでしょう。しかし、この世における神の御業に目を転じ、神がなさろうとしていることを思うならば、一人ひとりの使命が見えてきます。イエスを生んだ神の母マリアが生涯背負うべき特別な使命もまた、そこにあったのです。
教会におけるマリアのこの使命はまだ終わっていません。全人類の母マリアは、最後の一人が救われるまで、神の前で祈り、執り成し続けておられます。私たちは、そこで母マリアが子供たちのために流す涙の最後の一滴までも、神は決して無にしないということを、決して忘れてはならないのです。