聖体の祝日は本来、三位一体の主日に続く「木曜日」ですが、日本では全教会でお祝いできるよう主日にあたる今日お祝いします。

「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい」(申命記8・2)、という第一朗読の言葉は、イスラエルの民にとって特別な意味をもった言葉です。もし、荒れ野の体験がなかったなら、彼らの信仰がここまで深まることもなかったでしょう。乾ききった暗黒の地で彼らが体験したことは何だったでしょうか。神の助けがなかったなら、決して乗り越える事の出来ない恵みの体験でありながら、私たちには想像できない困難がその後の彼らを次々と襲います。しかし、打ちひしがれた彼らを立ち上がらせる何かがそこで働いたのです。それは一体何だったのでしょうか。

最後の晩餐を思い起こして下さい。(ヨハネ13章以下)それは、イエスがこの世から抹殺されようとしていた時です。今日の福音を通して、私たちはその奥にある神の愛を思い起こします。「わたしは、天から降った命のパン。これを食べる者は永遠の命を生きる」。イエスという存在によって私たちは生かされています。教会の歴史は、このパンを食べて生かされ、永遠の命にあずかってきた歴史であるということができるでしょう。そこから私たちが受け取るものは抽象的な教えや思想などではありません。真の命のパンであるイエスとの交わりに招かれていることを思い起こすのです。

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは世を生かすためのわたしの肉のことである」(51節)

この言葉を聞いたユダヤ人たちは、「どうして、そのようなことがあり得るのか」と、激しい議論を始めます。ユダヤ人たちの理解を超えた言葉でした。そこでイエスは大切なことを語ります。

「はっきり言っておく、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終りの日に復活させる。わたしの肉は真の食べ物、わたしの血は真の飲み物だからである」。(53節~55節)

弟子たちでさえ、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(60節)と言ってイエスから離れています。しかし、それでも、教会はイエスが語った言葉を大切にしてきました。イエスという真のパンを食べ、永遠の命を頂くことなしに私たちの信仰はあり得ないからです。槍で刺し貫かれたイエスのからだ。そこで流されたイエスの血によって救いは実現されたのです。真の神であられる方が、私たちの救いのために人となってこの世を生きて下さった。それ故に実現した救いです。イエスは、私たちのためにご自分の命を与えて下さいました。このことによって父なる神は、イエスに与えられた復活と永遠の命を私たちにも与えると約束して下さったのです。そこに「教会の信仰」があります。この教会の信仰に支えられて、私たちの信仰も意味あるものとなるのです。私たちに与えられた恵みは、旧約の人々に与えられたマナとは比較にならないほど遙かに優れた恵みです。イエスの御からだそのものです。イエスは、ご自分の血を流すほどの痛みを伴いながら私たちのために、命がけで救いを実現して下さいました。イエスの救いにあずかるとは、単にイエスを救い主であると仰ぐだけでは足りません。心とからだの両方においてイエスに結び合わされ、一体となることです。抽象的観念で救われるのではありません。「わたしを信じなさい」と言われたイエスにすべてを委ね、そのイエスと出会うことが重要なのです。  

 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(56節)。

私たちは、このような深い出会いに招かれているのです。そのためにこそ、イエスは人となって世に来られました。それによって世は、神から与えられた初めの祝福をもう一度取り戻すことができるようになったのです。最後の贈り物としてイエスがなさったこと、それはご自分の体を私たちに余すことなく与えることでした。それが、十字架上で裂かれたイエスの体であり、そこで流されたイエスの血です。最後の晩餐におけるイエスの望みに従い、教会は歴史の中でこのミサを何回も繰り返してきました。しかし、全てのミサはあの時、弟子たちを囲んでなされた夕食に集約されます。本当の意味でのミサはあそこにあるのです。何千年経過しようと私たちは、弟子たちと共に、イエスが差し出す体を頂き、そこから力を頂くのです。

イエスの十字架と復活に与った私たちは、聖霊の働きによってもう一度イエスご自身と結び合わされ一つとされます。そのようにして、「あなたは、いつもわたしの内にあり、わたしもいつもあなたの内にいる」というイエスの約束が現実のものとなります。地上の命を生きる私たちのために、イエスは聖体の秘跡を遺して下さいました。このイエスを通して、イエスと御父との間にある特別な深い関係にまで招き入れられます。そこまでの恵みは、イエスの存在がなかったなら決してあり得ない恵みなのです。

「わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」(57節)

イエスを通して、三位一体の交わりの中で生きる者とされる…。それ程までの深い関わりが、今ここで起こっています。イエスが私たちのために用意された恵みです。

イエス亡き後の教会は、このイエスの約束に支えられて歩み続けてきました。教会は、天上と地上の違いを超えてこのような新しい関係を生きている共同体です。それがキリスト者の生き方です。洗礼の恵みによって、キリストの体なる教会と結ばれている私たちです。私たちの現実がどれ程貧しいものであろうと、そこに働く神の愛が明らかになるならそれで良いのです。キリスト者とされた私たちの歩みにも様々な苦しみ、悲しみはあります。それは時々、教会の中で分裂の悲劇ともなります。これらはすべて、人間の罪や弱さゆえに引き起される悲しい現実です。しかし、だからこそ、そのような厳しい現実の中にイエスは来て下さり、その真っ只中に私たちも派遣されているのです。「わたしはここに、わたしはここにいる。」というイエスの声が届いているでしょうか。「わたしと共にあるなら、あなたの弱さも恵みの証しに変る」と言うイエスの声が聞こえているでしょうか。

引き渡され、殺される前に、どうしても伝えたかったことがイエスにはありました。その思いが聖体には詰まっています。「何があっても、わたしは世の終わりまで、あなたと共にいる。このことを決して忘れないように」というイエスの思いが込められています。このイエスの約束に気付くとき、真の出会いが生まれます。ミサ聖祭が目指している目標もそこあるのです。私たちの信仰は、個人的な信仰ではありません。天と地を越えた交わりの中で、互いに仕える者になりなさい、という教会の信仰です。イエスが遺された聖体の秘跡は単なるシンボルではなくて、イエスから託されたこの使命を生きるために必要な力なのです。全ての聖人方はそこから力を頂きました。世の終わりまで私たちと共にいることを望まれたイエスがそこにおられます。

聖体の祝日である今日、初聖体の恵みを受ける子供たちのために祈りましょう。愛の秘跡である聖体を通して、子供たちの心の一番深いところでイエスとの出会い交わりが深められますように…。「聖体の秘跡の中におられる主よ。あなたを信じる信仰を今日もお与え下さい。」