第一朗読(出エジプト記19章)で語られている出来事は、エジプトを脱出した民がシナイ山で神と結んだ契約についてです。「神が人間と契約を結ぶ」ということが本当にあるのでしょうか。神と人間とはもともと対当の立場にはありません。ですから、人間の方から条件を提示するということもないはずです。神との契約は、神が恵みによって下さるものです。そのことを前提として聖書は語っています。その内容は、神がイスラエルの民をご自分の民として下さり、ご自分がイスラエルの神であることを宣言して下さいました。神はイスラエルの民との間に、他の民族にはない特別な関係を結んで下さったのです。ここは、旧約聖書全体のクライマックス、中心とも言われる重要な箇所です。新しい神の民である教会は、旧い神の民であるイスラエルの歴史を受け継いで、今神の救いを語っています。では、イスラエルの民と契約を結ぼうとされる神のみ心とは何だったのでしょうか。
「あなたたちは見た。わたしがエジプト人にしたことを、また、あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来たことを」(4節)。ここに、契約の根拠が語られています。
シナイ山以前から、神は彼らとの間に特別な関係を結び、神が彼らの神となり、導いてきた歴史でした。神とのその特別な関係は、既に神が行なって下さった出来事でした。その事を思い起こさせながら神は、「わたしがエジプト人にしたこと」と語っています。イスラエルの民を解放しようとしないエジプト人たちに対して、神は数々の災いを下されました。いろんな危機的状況をくぐり抜けながらも、彼らの行く手には、海においても山においても様々な危険が満ちていました。すぐ後ろから、エジプトの戦車が迫って来る体験もしています。そのような中で、神は彼らを守り通したのです。これが、「わたしがエジプト人にしたこと」の意味です。そこまでして、神がイスラエルの民をご自分のもとへと連れて来たのは、彼らと契約を結ぶためだったのです。その契約の目的も語られています。
「もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。」(5節~6節)。
「イスラエルの民が神にとって宝となる」…。そこに、イスラエルの民と契約を結ぶ神の目的があるというのです。契約は、恵みによって与えられるものです。彼らが信仰深い民であったからではありません。イスラエルの民に神の民となるに相応しい資格など、初めからないのです。神は、彼らが奴隷にされ苦しめられているのを見て、憐れに思い、モーセを遣わして導いて下さいました。民に求められていることは、その恵みによって与えられる中身を理解し、神の約束の言葉に従って歩むことです。そうすることによって、イスラエルは「神の宝の民」となるのです。「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(6節)。ここで言われる「聖なる者」というのは、人間の基準や感覚での意味ではなく、神によって選ばれ、招かれ、神のものとされていくという意味です。
その人は、神と人々の間のとりなしをします。イスラエルが、神の民とされるのもこのためです。全ての人々のためにとりなしをし、神との良い関係を生きることができるよう奉仕をする任務です。しかも、イスラエルの民だけが神の救いの恵みにあずかるのではありません。全ての人々のために選ばれているのです。その使命は、最終的にはイエス・キリストを通して、全世界に宣べ伝えられる福音となります。
飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆を見たイエスは、その人々を深く憐れみ、「収穫は多いが働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と語っています。この「憐れむ」という言葉は単なる憐れみではなく、腸(はらわた)が揺り動かされる程のイエスの痛みを現す言葉です。遊牧民であったイスラエル人は、自分たちを神に導かれる羊の群れと考えていました。羊は、自分だけで生きることは出来ません。彼らにとっての信仰は、神に愛され導かれていることを前提とした信仰でした。イエスから見た私たちの現実は、飼い主のいない羊のような状態です。愛を失った人間は、そこで互いに傷つけ合い、憎み合う生き方となります。イエス・キリストは、このような私たちを導くために送られました。そのイエスが言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように収穫の主に願いなさい」と。その後、十二使徒が選び出されます。神は、教会の必要が、私たちの祈りによって与えられることを願っておられます。神は、心を一つにして願う私たちの祈りに、これ程大きな力と使命をお与えになっています。
弱り果て、打ちひしがれている者たちへの深い憐れみの心…。そこから教会が始まりました。主ご自身の中にあるこの愛の心に触れた人々を通して、神の愛はさらに多くの人々に分け与えられます。それを助けるのが私たちの祈りです。その祈りの中で私たちは、イエスの聖心を伝える者へと変えられていくのです。
イエスによって派遣された人たちは「使徒」と呼ばれます。イエスによって呼び集められた人々だからです。彼らは、神の国が近づいていることを告げ知らせる使命を与えられ派遣されます。それまでの彼らは、漁師であったり、徴税人であったり、中にはイエスを裏切ることになるユダまでも含まれています。決して、優れた資質を備えていたわけではありません。このような人々をイエスは選ばれました。イエスによって選び出された彼らは、その使命を果たす中で、徐々に変えられていくのです。
「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」(10章5節~6節)
「異邦人の道、サマリア人の町に入ってはならない。」とはどういうことでしょうか。多くのユダヤ人は、神から選ばれた民である自分たちは何があっても大丈夫、と考えていました。しかし、イエスが使徒たちに示された道は、絶えず、自分自身を振り返り、悔い改める生き方です。イエスから遣わされる人々に期待されているのは、自分の能力や才能ではなく、イエスを指し示すことです。そこで働くのはまさにイエスご自身だからです。
イエスは、十二人に贈り物として必要な恵みを与えました。弟子たちが派遣されていくのも、そのことを伝えるためです。イエスご自身から、ただで与えられた恵み。だからこそ大きな意味があるのです。「山上の説教」でもイエスは語りました。
「あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。(マタイ6・32~33)
この神の計らいに信頼して、派遣されたところで、与えられた使命を果たす。それが、弟子たちの姿であり、私たちの姿なのです。神が私たちに、ただで与えて下さる恵みです。私たちの先を歩まれるイエスを見つめながら、イエスと共に、神の国の福音を生きる者、イエスご自身からいただく平和をもたらす者となれますように…。
今日は、パウロ大倉神父様の司祭叙階60年(ダイアモンド)のお祝いと霊名のお祝いを致します。東京教区と徳田教会のために働かれた大倉神父様に感謝しながら、神様の豊かな祝福をお祈り致しましょう。