愛の根源である御父、その方を私たちに示すことが出来る方は御子イエスしかおられません。愛そのものである神を私たちに示し、その救いみ業を完成させること。これらすべてのことをイエスが成し遂げた後に見えてきたもの…それが、父と子と聖霊の神の姿なのです。聖書には「三位一体」という言葉は一言も語られていません。しかし、使徒たちを初め、イエスに出会った人たちが命がけで語っているのはこの神の愛の姿です。三位一体の神秘は、この神の愛の観点から語られなければ意味はありません。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り後を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・16)

新約聖書の頂点とも言われる箇所です。福音の中身がここに凝縮されているからです。私たちは、この神の愛によって支えられている…、そこに福音の本質もあります。世界とそこに生きている私たち一人ひとりに対する神の愛の神秘をヨハネは語っているのです。

イエスは、すべての人を照らす光として世に来られました。しかし、この世はその光を受け入れませんでした。暗闇に覆われているこの世界に光であるイエスが来られたことをヨハネは語っています。福音のメッセージの中心もここにあります。神に愛される資格が私たちにあったからではありません。元々私たちは、造り主である神の思いに逆らう者であり、罪の闇に覆われている者でした。しかし、神は良いものとしてこの世界と人間を創造されたはずです。(創世記1章~2章参照) にもかかわらず、自分の思いで、神から離れてしまった私たちを神は見捨てることなく、今も関わり続けておられるのです。しかもその愛は、「父のふところにおられる独り子」をお与えになる程の愛です。神の御子の死に至るまでの痛み苦しみを通して、神は私たちと関わり続けておられます。ここに神の愛の計り知れない大きさがあります。それは、イエスがこの世に生まれて下さったということだけではなく、私たちのために十字架にかかって死んで下さるまでの愛であったということです。神の独り子が罪人である私たちに代って死んで下さる程の愛の神秘です。

それによって、私たちはもう一度、神と共に生きる者とされ、失われた祝福が回復されるからです。神は、その独り子を犠牲にしてまで、初めに与えられた祝福と恵みを回復させようとしておられます。それだけではありません。神の御子イエスが十字架にかかって死に、復活したからこそ永遠の命がもたらされるのです。そのことによって、私たちを支配している肉体の死は乗り超えられ、永遠の命、救いに至る道が開かれました。復活した人となられたイエスは、私たちの復活と永遠の命の先駆けとなり、私たちにその恵みが与えられることの保証となって下さったのです。神はその独り子を与えて下さることによって、罪に陥っている私たちを赦し、罪の支配から解放して下さっただけでなく、私たちを支配している死の力にも打ち勝ち、永遠の命の約束を与えて下さっているのです。神は、それ程までの愛を注いで下さいました。それが福音の中心にあるものです。

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」。ここでは何度も、「裁かれる」ということが語られています。福音の本質が救いの喜びにあるならば、どうして、救われることだけでなく、裁きや滅びまでも同時に見る必要があるのでしょうか。

人間にとって神の救いとは、それに相応しい立派な存在だから与えられるというものではないからです。私たちは立派な者だから神に愛され、救われるのではありません。救われるに値しないにもかかわらず、神は私たちを愛して下さっている、その事によって私たちは本当の愛が何であるかを知りました。これは、イエスがもたらした福音の奥深さとも関係する愛の神秘です。福音は、私たちが何か悪いことをしたら裁かれる、滅ぼされる、などと語っているのではありません。私たちは既に、神の愛に逆らって生きている者です。その結果、隣人を愛することもできなくなり、互いを傷つけながら生きている者です。その私たちに神がして下さっていることを考えなさい、ということです。一生懸命、善い行いをしたから、あるいは立派な人間になる努力をしたから、それによって得られる救いの話しでないのです。私たちを救おうとする神の思いを知りそれに応えることが、私たちに求められている第一のことです。そこに福音の核心があります。イエスの光に照らされた時、私たちの全ては明らかになります。そこに、イエスの十字架によるゆるしの恵みがあるからです。だから、イエスに出会った人々は、命がけでこのイエスによる救いを証ししているのです。神は私たち全てを、御子によるこの救いの喜びへと招いておられるのです。

神の愛による救いの観点から三位一体の神秘を考えるなら、私たちの救いを神がどれ程本気で考えておられるかが分ります。イエスが示された神は、父と子と聖霊の在り方をしておられること。同時にこの神は三人の神ではなく愛の交わりの中で、ただ一人の神であられること。この神の存在の神秘は、私たちの頭で考えて理解できるものではなく、神からの啓示と恵みによって初めて受け止めることのできる神秘であること。だからこそ、人となられた神の御子イエスの存在と彼が語った言葉は非常に重要となるのです。神の内面の神秘に関わることだからです。それは、神の側から私たちに示されて初めて明らかとなる神秘です。ゆえに、私たちはこれを信仰を持って受け留めることの出来る恵みを願うのです。そこで重要なことは神への信頼です。考えてみてください。人間よりも無限に偉大な神の存在の神秘を、人間が完全に理解することなど最初から出来るはずがありません。それでも、イエスは愛によってその神秘を私たちに示し、その中に私たちを招き入れようとしておられるのです。私たちは愛によってこの方を信じ、愛によってこの方に全てを委ねるのです。神の助けによって、私たちの中に実現しようとされる神の愛の神秘だからです。神が神であるならば、無限の神を、どうして地上の有限なものを通して完全に知り尽くすことなど出来るでしょうか。あり得ない事です。神学的知識に恵まれたあのパウロでさえ、地上において神を知ることは信仰の恵みを通してであると語っています。神の愛の神秘に出会ったパウロは、その体験を通して神の存在の奥深さと素晴らしさの幾分かでも、私たちに伝えようとして語っています。

「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。いったいだれが主のこころを知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか」(ローマ11・33以下)。

この神の存在も、私たちが自力で見つけ出したのではありません。神の側からの計り知れない働きと導きがあって初めて知ることのできる恵みです。この三位一体の神との出会いが私たちの信仰です。その信仰を保持し、悟らせてくれるのは聖霊です。イエス以後の時代は、この聖霊が教会を導きます。栄光は父なる神とその御独り子と慰め主なる聖霊に。初めのように、今もいつも世々に…。