重い皮膚病を患っている人が、「わたしを清くして欲しい」とイエスに願っています。当時、この病気は「汚れ」と受け止められていました。ですから、この人は清くされることを願っているのです。汚れていると判定された人は、家族からも切り離され、宿営の外で一人で生活しなければなりません。そこに、この病気にかかった人の深い悲しみがあります。この人の悲しみを、イエスは自分の痛みとして感じ取り、「清くなりなさい」と語っているのです。病気のために、イスラエルの中で生活することも、共に祈ることも許されなかったこの人の痛みを、イエスは自分の痛みとして受け止めているのです。

再び社会の中で人々と共に生活することができるようになったこの人にとって、癒やされるということは、神の民として人々と共に、再び祈ることが出来るようになったとうことです。イエスはそれを望み、実現して下さったのです。この時、イエスはなぜ「だれにも、この事を話さないように…」と命じているのでしょうか。しかし、彼はイエスのもとを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ言い広め始めました。イエスから厳しく注意されたにもかかわらず、彼は語らずにはおれなかったのです。その結果何が起ったのでしょうか。「イエスは、もはや、公然と町に入ることができず、町の外の 人のいない所に退かなければならなくなる」という状況が生まれました。多くの人々が、四方からイエスのところに押し寄せて来ます。たくさんの人々がイエスのもとに来るのは、彼らが抱えている様々な問題をイエスが解決してくれることを期待しているからです。

それまで、人のいない、町の外で生活していたこの人も、今は人々の中で生活することができるようになりました。しかし、イエスは逆に、公然と町に入ることができなくなり、町の外の、人のいない所に行かざるを得なくなっています。清めの奇跡によって、立場が逆転しているのです。彼は町の中で人々と共に暮らすことができるようになり、イエスは町の外の 人のいない所にいなければならなくなったのです。

ここに、私たちの重荷を引き受け、解放して下さったイエスの姿が現わされています。そのために、決定的に重要なことは、十字架におけるイエスの死という出来事です。イエスは、私たちが神の民として生きることができるように、十字架上で死んで下さいました。このイエスによって私たちは、イエスと共に神の命を生きる者、互いのために祈る者、として生きる事が許されているのです。地上の歩みには、未だに、様々な限界もあります。それにも関わらず私たちは希望を持って生きる事ができるのです。

イエスは今日も語っておられます。「わたしは望む。清くなれ。そしてわたしと共に、もう一度立ち上がりなさい」と。このイエスの励ましの言葉がある限り、失望することはありません。イエスは、私たちを深く憐れみ、手を差し伸べて触れ、「わたしは、あなたの幸せを望んでいる。」と宣言しておられます。

私たちの幸せは、自分の望みによって生きることではありません。イエスによって示された神の思いを知り、それを生きるところに私たちの幸せがあるのです。その時、全てのことが「神の栄光を現すもの」に変えられます。そこに、本当の自由もあります。だからパウロも言っています。

「あなたがたは、人を惑わす原因にならないように注意しなさい」 (第2朗読参)。

私たちに求められていることは、イエスによって示された自由を生きる事です。自分の利益を求めて生きるところに不自由さがあり、躓きも起ります。

「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもわたしに倣う者となりなさい」。

私たちが忘れてはならない生き方がここにあります。自分にではなく、キリストに思いをあげる時、「すべての事が、神の栄光を現す恵み」(第2朗読参)に変えられるのです。私たちの弱さや限界さえも、そこでは神の栄光を現わす恵みに変えられます。今日、私たちは世界中の人々と共に、病者のためにも祈ります。全世界の教会と繫がりながら祈るとき、そこに、私たち個人の限界を超えて働く大きな力があることをイエスが教えて下さったからです。被災された方々や、戦争の中にある方々と共におられるイエスを思い起こしながら、全てにおいて、全ての出来事を通して、主のみ心が行われますように。そのために、主が私たちを用いてくださいますように……。