イエスは病める者、倒れる者の近くにおられ、その手を取って起される方です。癒やされたシモンの姑は、早速一同をもてなしました。この事は同時に、弟子たちの信仰体験でもあります。「もてなす」という言葉は、元々は「仕える、奉仕する」という意味の言葉のようです。助祭職の「ディアコノス」という言葉もここから生まれています。ここで、誰よりも早くイエスに出会っているのはこの名もなき女性であることは興味深いことです。彼女は、いろいろと問うこともなく、黙々と奉仕する道を選んでいます。聖書が語る、イエスの弟子としての姿は、名前も記されないこのような女性たちを通して描かれているのです。

幼い娘を持つ異邦人の女性、レプトン銅貨二枚を賽銭箱に入れた貧しいやもめ、高価なナルドの香油をイエスに注いだ女性、弟子たちが逃げ去った後も十字架のもとで最後まで見守る女性たち、そして、週の初めの日の朝早くイエスの墓へ向かって急ぐ女性たちの姿…。そのような女性たちの姿を通して、イエスの弟子としてのあり方が示されているのです。そこには、主を信じる素朴な信仰と、ひたむきに神に仕える姿があります。それこそ、私たちが見なければならないイエスの弟子としての本当の姿なのです。

 夕方になって日が沈むと、人々は多くの病人をイエスのもとに連れて来ます。この人々をイエスは癒されました。私たちも安心してこのイエスに、すべてを委ねてよいのです。イエスは、神の子としての権威をもって病人を癒しましたが、決して人々を惹き付けるためではありません。彼らをその苦しみから解放するためです。十字架と復活によって、神の救いが公に示されるときまで、イエスの本当の姿は隠されています。周りが騒がしくなる中で、この名もなき女性は、黙々と神の心を生きる事でイエスを指さしています。一同をもてなすこの女性を通して、「仕えるために来られた神、ご自分の命を与えるために来られた救い主」の姿が示されているのです。ですから、これは単に病気が癒やされたという話しではありません。現代に生きる私たちも、自分の事しか考えられない病に冒されているのではないでしょうか。イエスがそばに来て下さり、手を取って助け起こして下さる時、熱病は去りました。

私たちも、自分を献げて生きるべき確かな方を見出しているでしょうか。そこから、イエスに従う者としての新しい歩みが始まります。主にあって、互いに仕え合う共同体もそこに作られていきます。朝早くから夜遅くまで働かれたイエスは、祈るため人里離れたところへ向われました。それは「荒れ野」とも言われるところです。イエスの活動の原動力は、この「祈り」にありました。十字架を前にした時にもイエスは祈られました。その祈りの中に、今の私たちのために執り成し祈るイエスの姿があるのです。

イエスは、人々のために祈る共同体として教会を創立されました。そのための使命を私たちにも与えておられるのです。主が私たちに望んでおられることは、「イエスと共に、イエスの目的に向って歩む者になって欲しい」という切なる願いです。

「ほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは来たのである。」と語りながら、今も私たちを招いておられます。イエスに癒しや奇跡を求めて集まる人々はたくさんいても、イエスが望んでおられる事のために働く者は少ないのです。あなたは、このイエスに出会わせて頂いたのだから、このイエスの思いを伝える者になって欲しい…という声が私たちにも届いているでしょうか。

第2朗読でパウロも語っています。神である方が、一人の人間として地上に生まれたことによってもたらされた恵み。それは、今までのパウロには考えられない神の姿でした。悲しんでいる人々に手を差し伸べ、最後は弟子たちさえも逃げ出してしまう十字架のもとでの孤独な死。人間の現実からすれば、躓きとなるこの体験から、使徒たちの信仰も生まれました。そして、かつて自分が迫害していた教会のために、命がけで奉仕する者にまで変えられていったのです。その「教会の信仰」に支えられて、今の私たちの信仰もあるのです。