ヨハネから洗礼をお受けになったイエスは、聖霊によって「荒れ野」へと送り出されます。荒れ野というのは、人間が生きることのできない不毛な場です。そのような所へイエスは追いやられたのです。なぜ、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声を聞いたイエスに、このような事が起こったのでしょうか。しかも荒れ野へ追いやったのは聖霊です。神ご自身が、愛する子を荒れ野へ追いやるなどということがなぜ起ったのでしょうか。それは、私たちに対する神の愛の現われです。

 

私たちも、洗礼を受けた時から新しい歩みが始まっています。洗礼を受ければ悲しみや苦しみがなくなるということはありません。洗礼を受けたことによって追いやられる、思いがけないこの世の荒れ野もあります。イエスは、その荒れ野に四十日間留まりました。そこで体験した誘惑とは、人間の本来あるべき姿を失わせ、進むべき道から逸れさせようとする力です。御父のみ心に適う業を行うために歩み出したイエスに、救い主としての歩みを妨げようとする悪の働きです。

 

イエスが受けられた誘惑の内容をマルコは敢えて語っていません。それはなぜでしょうか。他の福音書が語っている三つの誘惑は、「あなたが神の子なら、石をパンに変えて人々に食べさせればよいではないか」ということと、「神殿の屋根から飛び下りて、天使が支えてくれることを人々に示せ」ということ、そして「サタンを拝めばこの世の全ての繁栄を与えよう」という内容でした。これら全ては、イエスが神の子であることを前提としたイエス特有の誘惑です。神の子イエスにおいてのみ成り立つ誘惑です。イエスが荒れ野で受けた誘惑は、私たちのために引き受けたイエスの苦しみです。そして、それは全ての人間に共通する誘惑です。マルコは、私たちの歩みと重ね合わせながら、イエスの体験を説明しようとしているのです。

 

 荒れ野のようなこの世を歩む中で、私たちも誘惑を受けます。イエスを信じ、神の愛を受けて生きようとする私たちを妨げる様々な力が存在します。しかし、本当の問題は、そういうことの中で私たちの心の中に、疑いが生じてくることです。イエスを信じて生きることが難しい状況の中で、神がおられるなら、どうしてこんなことが起るのか…、と思うこともあります。場合によっては、教会そのものが荒れ野のように感じられてしまうこともあり得ます。それら全てが、私たちをイエスから引き離し、信仰を妨げようとする誘惑です。「荒れ野に追いやられ、そこで誘惑を受けるイエスの姿」…。それは、地上の私たちの現実と重ね合わせながら見なければならない神の御子の姿であり、神の救いの神秘です。

私たちは、いつも誘惑にさらされながら歩んでいるものです。人間の力だけで、これに打ち勝つことはできません。悪の働きはこの後も、十字架の死に至るまで、イエスの生涯において繰り返されていきます。しかし、イエスは最後まで御父の望みを生き、私たちと歩みを共にして下さる方です。

 

 四十日間、荒れ野に留まり誘惑を受けたイエス。「四十」という数は聖書において大事な場面に出てきます。旧約聖書には、エジプトを出たイスラエルの民が、約束の地カナンに入る前に四十年間荒れ野をさまよいました。また預言者エリヤが、自分を殺そうとしている人々から逃れて四十日四十夜歩き続け、神の山ホレブに辿り着き、そこで神の声を聞いています。いずれの箇所においても、神の救いのみ業が進展していく印として、四十という数が用いられています。イエスが四十日間荒れ野に留まり、サタンの誘惑をお受けになったことにおいても、神による救いのみ業が新しく進展しようとしていることが示されているのです。復活したイエスは四十日にわたって弟子たちにご自分を現されました。

 

荒れ野で、野獣と共におられたイエス。これにはどんな意味があるのでしょうか。荒れ野……、それは野獣の住む場所です。四十日イエスは、そこにおられました。しかし、そこで天使たちがイエスを守っていました。荒れ野に追いやられたイエスを私たちの信仰の歩みと重ね合わせて考えるなら、ここに大切な意味があります。荒れ野のようなこの世を、様々な危険にさらされながら生きようとする私たち。場合によっては、信仰を持っているがゆえに生じる新たな危険さえあります。自分の力でこれを克服することはできません。そのために神は、天使の守りと支えの中でイエスを支えたように、この世における私たちの歩みをも守り支えておられるのです。

洗礼を受けたイエスが、聖霊によってすぐに荒れ野へと追いやられた出来事の中に、私たちに対する神の限りない愛があります。様々な誘惑にさらされつつ生きる私たちの弱さを神は知っておられます。イエスは、その中で、私たちのために、救いの完成を先取りしておられるのです。それは、イエスによって、荒れ野がもはや荒れ野ではなくなったこと。私たちを滅ぼそうとする悪の力は、イエスの十字架と復活によって既に失われていることを知って欲しいからです。その救いのみ業は既に実現しているのです。その中に私たちは置かれています。私たちと同じように苦しみをお受けになったイエスは、私たちが体験する地上の苦しみや悲しみの全てを背負い、復活の新しい命によって私たちを立ち上がらせて下さいます。

ミサは、救いの完成において与えられる恵みを先取りして味わうようにとイエスが残して下さった恵みです。聖体の秘跡を通して私たちは、救いの完成の時に与えられる恵みを今、ここで先取りしているのです。共にいて下さるこのイエスの恵みを感謝しながら、天使たちの護りと導きのうちに生きるのです。御復活までの四十日……、四旬節は神が私たちたのめにして下さったこの救いの神秘をイエスの歩みを通して思い起こす特別な恵みの時なのです。