フロジャック神父様によって、1953年(昭和28年)に始められた徳田教会は、今年70年を迎えます。丁度、今日の福音はその「教会の神秘」について教えてくれています。

イエスは弟子たちに言われます。「あなたがたは、地の塩、世の光である。神から頂いたその役割を世に輝かしなさい。たとえ少数であっても、あなたがたには神から期待されている大切な役割がある」…。それは、全てのキリスト者に向けられた言葉でもあります。

神からの光に照らされなければ、私たちには見えない神の働きがあります。同時に、自分のあるがままの姿も神の助けなしには私たちには見えないのです。愛のない世界、真理を失った世界…、神の思いとは違うところで生きている現実。これらはみなこの世の闇から来るものです。そのような中で私たちは、イエスがもたらした光を世に指し示す使命を与えられているのです。

「あなたがたの立派な行い」と書かれています。そんな大それた事を言われても…と正直思ってしまいます。しかし、私たちはイエスの言葉の真意を受け止めながら理解しなければなりません。キリスト者に与えられている恵みは、私たちの中で働く神ご自身の光が前提です。人間の努力で生み出したり、輝かせたりできるものではありません。私たちの中で働く神の働きこそイエスの言う「立派な行い」なのです。それによって、この世の闇を照らし、神の思いを指し示す者であって欲しい…、というイエスの切なる願いがあるのです。

人間の自己正当化の歴史、混沌とした闇の歴史を聖書はいたるところで語っています。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた」。(士師記17・6)。各々が、自分の目に正しいと見えるところに従って歩み、それでも社会の混乱は深まるばかりであったならば、神の望み、導きがそこにあるとは言えないでしょう。イザヤの時代にも同様の事がありました。「悪を善と言い、善を悪という者は災いだ。彼らは闇を光、光を闇とし、苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする。」(イザヤ5・20)。

イエスの時代もそうでした。その闇は深く、律法学者、パリサイ人たちも自分の価値観によって律法を解釈し、人を裁く生き方をしていました。そのような人々を前にしてイエスは、私たちの判断の根拠がどこにあるべきかを教えています。

人間は、自分の立派な行いによって光を造り出すのではありません。キリストご自身の光が、私たちの中で働くときに自ずと輝き出るものです。その時、私たちの弱ささえも主キリストを証しするものに変わります。キリストこそが光の源です。私たちは、この主を離れて神の栄光を映し出す事はできません。「主の栄光を映しながら」(Ⅱコリント3・18)歩むのが私たちの人生です。イエスの願いは、私たちが父なる神の思いに気付くことです。

「あがめる」というのは、神に栄光を帰す、与えるという意味です。私たちの行いの目的は、自分の誉れのためではなく神に栄光を帰すためです。私たちの使命は、神の光を反映させるもの、主の光を運ぶ者となることです。それは、考えられないほど大きな恵みです。もし、自分のための誉れが原動力となっていたら、どんな立派な行いであっても神の心を映し出すものとはならないのです。私たちの行いの全ては、神があがめられるため、神の栄光と賛美のために…という目的によってなされるべきなのです。イエスの言う「立派な行い」とはそういう意味です。そのようにして福音は自ずと伝わっていくのです。

世にあって、地の塩、世の光であるようにとイエスから望まれている事には大きな意味があります。主の昇天以後、主の恵みは聖霊の働きと共に、地上の人間を通して働いています。それが教会の歴史でもありました。ですから、教会は昔から歴史の中で社会の不公平や、正義、命の問題にも関わってきました。それは、社会の基準が神の指し示す思いに基づくものとなるためです。二千年経った今でも同じです。愛や平和の根底にあるもの、これがなければ成り立たない大切なもの…。それは「イエス・キリスト」という存在です。もし、塩が塩気を失ったら塩でなくなるように、キリストを信じる私たちも、様々な弱さ・限界の中にありながらもイエスの思いを生きようとしていないなら、主の光を輝かせることはできません。教会が世に存在する意味と目的は、このイエスの存在を指し示すところにあります。

私たちが神を中心にしないとき、あるいは別のものを基準に生きているとき、私たちは地の塩、世の光ではなくなってしまいます。特に、戦争の最中にある人々のために祈りましょう。彼らは存在によって、本当の希望と光がどこにあるかを示しています。この光は、キリスト者のためだけのものではありません。全世界のための光です。私たちは神から招かれてここにいます。神の言葉に耳を傾けていること、神を信じていること、洗礼を受けたこと…、これら全ては私たちの行いの結果ではなく、主との出会いが先にあって実現した恵みです。それらは全て向こう側からやってきます。全ての体験を通して神が導いてくださった恵みです。

教会(ギリシャ語のエクレーシア)とは、呼び集められたものという意味です。神に呼び集められた人々の共同体、それが教会です。そうであれば、そこには必ず神の意図があるはずです。神が、第一に望んでおられることは「私たちが互いに一つとなること」です。神に招かれたものとして、私たちが一つとなること、それこそ忘れてはならない大切な使命なのです。それは、各人が優れた徳を身に着けること以上に大切な使命です。引き裂かれたこの世界のただ中にあって、争い憎み合っているこの世界のただ中において、本来一つになり得ない私たちが、それでも一つになれるとすれば、そこにイエスがおられるからです。私たちを一つに結びつけるきずな…。それは、私たちが造り出すものではなくて、教会への奉仕のために神から与えられる恵みなのです。

弟子たちも最初、ユダヤ人たちを恐れて家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。その弟子たちの真ん中に復活の主が立ち、「あなたがたに平和があるように…」と言われました。そして、お見せになったのは手とわき腹の傷跡であったことを思い起こしましょう。(ヨハネ20:20)私たちが一つになれるのは、この方の痛みと苦しみがあるからです。人間が造り出す平和が最終目的ではありません。それも尊いものですが、本当の平和は、主の大きな犠牲によって与えられる恵みです。だから信頼して良いのです。大事なことは、異なる者同士が、キリストと共に、「キリストの体なる教会」を造り上げていくことです。主によって与えられるこの平和と一致を生きようと、微力ながら努力する生き方が、イエスの語る「あなたたちの立派な行い」なのです。

今日、2月5日は「日本26聖人」の祝日。2月3日は、「ユスト高山右近」の記念日でもありました。日本には、たくさんの殉教者や証聖者たちの証しがあります。彼らは自分の生涯を通して福音が語る地の塩、世の光として、今も私たちを照らし続けています。