ユダヤ人たちは、イエスに激しい反感を持って「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言っています。こんなことをする権威がお前にあるのか、とイエスに詰め寄っているのです。

 それに対してイエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と答えています。それを聞いたユダヤ人たちは尚更びっくりして、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言っています。

イエスの言う「神殿」とは、イエスご自身のことです。人間の「商売の家」にしてしまっている。それを、神との交わりに生きる本来の場に戻そうとしておられるのです。私たちは今、イエスを通して、イエスの祈りに合わせて、神のみ前に出る事が許されているだけでなく、その神との交わりに生きる恵みさえも与えられているのです。本来あり得ない恵みです。「三日」という言葉は、イエスの復活を指し示しています。イエスの死と復活によって、新しい礼拝、まことの礼拝が確立しました。イエスという真の神殿が私たちに与えられています。もはや犠牲の動物を捧げる必要もありません。むしろ、あるがままの私たちを捧げるところに意味があります。

イエスはご自分のからだを通して、新しいまことの神殿である「教会」を打ち立てて下さいました。ですから、教会はキリストの体とも呼ばれます。教会は、復活されたイエスが生きておられるところです。そのイエスのもとに呼び集められ、その救いにあずかり、イエスと結び合わされた人々の集まりが教会なのです。私たちは、洗礼を受けることによってその教会の一員となります。洗礼は、私たちがイエスの十字架の死と一つとなることによって罪から解放され、復活されたキリストの体の一部分として、新しい命、永遠の命を生き始める最初の恵みです。イエスの十字架の死と復活、そして聖霊の働きによって、キリストの体である教会がこの地上に築かれたのです。

 このことを弟子たちが信じることができたのは、教会の信仰に委ねて生きる人々の存在があってのことでした。私たちも、いまその教会の中で、世界中の人々と結ばれながら祈っています。教会の信仰が先にあるからこそ私たちは、様々な不条理の中にありながらも、信じる恵みを頂き、イエスと共に新たに生き始めるのです。

イエスは、この話しを過越祭が近づく中、エルサレムの神殿において語られました。過越祭は、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民を主が解放し、エジプトから脱出させて下さった時の主なる神の救いのみ業に由来しています。主の使いがエジプトの全ての初子を打つという恐るべきみ業をなさり、それによってイスラエルの民は解放されました。その時、イスラエルの初子は一人も打ち殺されることはありませんでした。「過越の小羊」の血がイスラエルの民の家の戸口に塗られ、それが目印となって、主の使いはその家を過ぎ越したからです。過越の小羊が犠牲となって死ぬことによって、イスラエルの初子は救われ、民全体が奴隷の苦しみから解放された、そのことを記念するのが過越祭です。このエジプトの奴隷状態からの解放の恵みによって、イスラエルの民は、主なる神の民、主を礼拝しつつ生きる民としての新しい歩みが始まります。

そのことが真の意味で実現したのは、イエス・キリストの十字架の死、そして復活したイエスのもとに教会が結集されることによってです。イエスが十字架につけられたのも、過越祭の時でした。このイエスを見、このイエスから大切な事を学びなさいと、弟子たちは語りました。イエスは私たちのために死んで下さった方です。それによって私たちが救われ、神を礼拝しつつ生きる神の民とされているのです。イエスの十字架の死によって実現したことは私たちの救いです。このイエスが、私たちに与えて礼拝の場が教会です。それは単に建物だけのことではありません。まことの礼拝は、キリストの十字架の死と復活によってこそ打ち立てられるものだからです。御復活に洗礼を受ける方々のために、特に祈りましょう。