主のしもべは、なぜ苦難を受けなければならなかったのか。それは、私たちのためであったとイザヤは語ります。メシヤであるイエスが、どうして十字架で死ななければならなかったのか。ユダヤ人にとってはつまずき、ギリシャ人にとっては愚かなこと。しかし、キリスト者にはとっては神の力である(Ⅰコリ1:18)とは、どういう意味なのでしょうか。これほどの最高の愛が示されても、この世は、神の思いを受け取れないものなのです。神の助けがなければ、誰もこれを受け止めることはできません。だから人々はイエスを信じませんでした。それは私たちが想像するメシヤとは余りにも異なるからです。しまし、なぜメシヤがこれほどまでに蔑まれなければならなかったのか。そこが分らなければ福音の語る神の愛も分りません。

 この素晴らしい救いの知らせを人々は信じなかった、と聖書は語ります。ユダヤ人たちが待ち望んでいたメシヤとは、イスラエルを復興してくれるメシアでした。ローマ帝国の支配から解放してくれる政治的メシヤを待ち望んでいたのです。イエスは、そういう罪を根本的なところから解放するために来られた方です。しかしそれは、人間には受け入れることのできないものでした。イエスが、彼らの目の前で多くのしるしを行われても、彼らはイエスを受け入れませんでした。なぜなら、イエスが、ご自分の死について語り始めたからです。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはそのまま。しかし、死ねば多くの実を結ぶ。そんな弱々しいメシヤは彼らに必要なかったのです。

 それはどの時代も同じでしょう。どんなに福音を語っても、人々が求めているのは力、栄光、成功、繁栄…等々です。そのような話にはすぐに飛びつきます。それでも福音を語ることをやめてはなりません。神の国は、そのようにして築かれて行くものだからです。そもそも、イエスの存在がそうです。天地を創造された救い主が、家畜屋に生まれ、飼い葉桶に寝かされる。一見、救い主とは全く関係ないと思われる場所でイエスは生まれました。神の救いとは、私たちが考えているようなものとは全く違うものなのです。

 なぜ彼らは信じなかったのでしょうか。それは、人間が想像するメシヤとイエスがあまりにもかけ離れていたからです。イザヤが語るように「この人には、私たちが見とれるような姿も、輝きもなく、私たちが慕うような見映えもなかったから」です。「若枝のように…」とは、何かに頼らなければ自力では生きていくことができない、弱々しい姿という意味です。ですから「彼には、私たちが見とれるような容姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見映えもない」のです。イエスには、私たちが見とれるような容姿も、輝きもありません。私たちが慕うような見映えもありません。

どんな悪事をイエスが働いたというのでしょうか? 何一つ悪いことなどしていません。それどころか、自分を捨て、他の人の幸福のために働きました。病人をいやし、疲れた人、苦しんでいる人を慰めました。イエスは食べるのも忘れ、寝る時間も惜しんで、人々のために仕えました。それなのに人々は彼をのけ者にし、「十字架につけろ」と叫んだのです。彼は、悲しみの人でした。悲しみとは、この世のすべての痛み、悲しみを知っている人だったという意味です。人々が求めていたのは、あくまでもイスラエルをローマの支配から解放し、この地上に神の国をもたらしてくれるメシヤでした。しかし、イエスはそういう生き方をしなかったということです。見た目には何の輝きもなく、魅力もないメシヤだったと聖書は語っています。それはメシアを待ち望む人々にとって「期待はずれ」の姿だったのです。

 一体なぜ、主のしもべが それほどまでに蔑まれなければならなかったのでしょうか。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。・・・それなのに、私たちは思った。彼は神に罰せられ、打たれ、苦しめられているのだと…。」しかし、実はそうではありませんでした。それは、私たちのためでした。彼こそが、私たちの罪を負い、私たちの痛みを担っていたのです。彼は、私たちの背きのために刺し通され、私たちの咎のために砕かれたのです。彼の受けた痛み、悲しみによって、私たちに平安がもたらされ、彼の受けた打ち傷によって、私たちは癒やされたのでした。

主のしもべが刺し通され、打ち砕かれたのは、私たちの罪のためであり、私たちの咎のためだったのです。ここには、「刺し通す」とか「砕く」という言葉があります。これはまさに主のしもべなるイエス・キリストが受けた十字架の苦しみを表しています。しかし、この預言はイエスが生まれる七百年も前に書かれたものです。イザヤはイエスの十字架を見ていません。にもかかわらず、イエスが十字架で刺し殺され、打ち砕かれた出来事を見事に表現しています。その苦しみは何のためだったのでしょうか。なぜ、彼は十字架で死ななければならなかったのでしょうか。それは私たちのためです。彼が刺し貫かれ、打ち砕かれたのは、私たちのためだったのです。イエスの受けた打ち傷によって、私たちはいやされたのです。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」のです。最初の人アダムから今日に至るまでのすべての罪を彼は負われたのです。

 イスラエルでは、多くの人の罪が赦されるために、小羊が殺されました。その血が注がれることによって人々の罪が赦され、その肉が食されることによって、人々のいのちが保たれたのです。つまり小羊は救いの力、あがないの力を現す動物でした。イエスはまさに、その神の小羊となって死なれたのです。イスラエルの民がエジプトから解放される時、小羊が殺されて家の玄関のかもいにその血が塗られました。それによってイスラエルの人々は、神の滅びから守られ、エジプトから出ることができました。「出エジプト」という出来事は、過ぎ越しの小羊の血によって実現したのです。イエスの受難はそういう意味を持っています。私たちは皆、羊のようにさまよいながら、各々自分勝手に歩んでいます。それが聖書で言われる罪です。それは「的外れ」という意味も持った言葉です。

「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」何ということでしょうか。この世の人々には”愚かな失敗”としか写らない十字架。しかしそれは、私たちに対する神の”最高の愛の現れ”だったのです。

いつの時代でもこの世には、様々な苦しみがあります。不安や恐れ、そして心の安定を失い、孤独のうちにある人もいます。しかし今私たちが体験しているこれらの苦しみの現実も、本当に支配しておられるのは父なる神なのです。神がこのことにおいて何を考がえておられるか、すぐには分かりません。これによって愛する家族を失った人たちもたくさんおられます。私たちが今忘れてはならない事は、このような現実においても、神は、イエスの十字架の死によって、人間の罪とその悲惨な現実に神が打ち勝ち、救いのみ業を行なっておられるということ、そして、この出来事を通して神が語りかけておられることを聞き取るための目と耳を持ち続けることではないでしょうか。

神様は意地悪をしているのではありません。不当な苦しみとしか思えない現実の中で、私たちが目にしているのは「恵み」です。ただ不当な苦しみを耐えているのが恵みなのではなくて、イエスと共にそれを体験することが恵みなのです。

その恵みは、その人だけに留まるものではありません。その人を通して他者へと向かうものです。与えられた恵みはこのようにして、世界の中で目に見えるものとなるのです。

神の恵みはイエスという存在を通して、形を取ってこの世に現れました。憎しみと怒りの連鎖によってがんじがらめになっているこの世界に、神からの恵みが形を取って現れたのです。私たちが、召されてここにいるのはそのためです。

本来ならば、イエスに苦しみを受ける理由はありません。しかし、彼は罵られ、苦しみました。それは明らかに不当な苦しみでした。主は不当な苦しみを耐え忍ばれました。そのイエスは、私たちの忍耐の模範である以上に、どのようにして神の恵みが注がれるかと言うことも教えて下さいました。私たちが癒やされ赦され、希望を持つことが出来るとすればそれはイエスの十字架があるからです。イエスがお受けになった傷によって、私たちは癒やされるのです。

イエスが担ってくださったのは、私たちが受けるべき十字架でした。イザヤが語る「苦難のしもべ」はイエスの姿です。イエスを不当に苦しめ、傷を負わせたのは私たちだったのです。私たちが負わせた傷に対して、イエスが私たちに返したのは癒やしでした。そのつもりでイエスは傷を負われたのです。そこに見るのは「神の恵み」です。その方のもとに、私たちはいます。主の裂かれた体、主の流された血を思いながら、主が受けられた傷とそこから与えられる癒しを思い巡らしましょう。私たちは、もはや彷徨っている羊ではありません。私たちが召されたのはこのためです。イエスから力を頂きながら、神の癒やしの恵みを人々に告げ知らせるために…。