十字架の上で息を引き取られたイエスの姿をマルコは伝えています。イエスを十字架につけたのは午前九時であったと書かれています。そして昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いたとも書かれていますから、午前九時から午後三時に至るまでの六時間、イエスは手と足を釘で打ち付けられていたことになります。その苦しみの姿を多くの人々が見ていました。彼らは、「救い主なら先ず自分を救ってみろ」とイエスを罵り嘲る人々です。十字架の死刑は見せしめという意味も持っています。激しい痛み苦しみと出血の中で、次第に弱って死んでいく死刑囚の姿を多くの人々に見せるために十字架につけるのです。残酷な光景です。  

 十二時から三時間までの地上の暗闇。それは、まさに人間の罪からくる暗闇です。人々を愛し、弱い者、貧しい者を助け、罪人の友となった神の御子を殺そうとする人間の罪。そこからくる地上の暗闇は今でも世界を覆っています。たとえ日の光が燦々と降り注いでいたとしても、そこを支配しているのは罪の暗闇です。罪に支配された人間がどれほど残酷になれるかが示されています。しかもその人々は自分が正しいことをしていると信じてこの残酷さを生きているのです。なんと悲惨な現実でしょう。人間の正義からくる残酷さです。かつて、イエスの十字架を覆った闇は、私たちが生きているこの世界をも支配しています。 今、世界で起っている悲惨な現実。私たちはこれをイエスの十字架と無関係で見る事はできません。今も昔も、人間の罪による暗闇が、数々の悲惨な出来事を生み出していることに気付くことなしに、イエスの十字架を正しく受け止めることはできません。

 この闇の中で、六時間にわたる激しい苦しみの末に、イエスはついに大声で叫びました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という詩編22の言葉です。イエスが十字架の上で語られた言葉は他にもあったでしょうが、マルコが語る最後の言葉はこれでした。その時、差し出されたぶどう酒を飲むことなく、イエスは大声をあげて亡くなりました。なぜ、神である方が、詩編22の言葉を自分の祈りの言葉として唱えているのでしょうか。これは、神に見捨てられてしまった人間の嘆き苦しみ、絶望を語っている言葉です。

「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、わたしの呻きに耳を傾けてくださらないのか。わたしの神よ、わたしの主よ、なぜ、これほど呼び求めても あなたは答えてくださらないのか…。」

このイエスのうめきと涙を私たちは今、知らされているのです。神は私から遠く離れ、私の嘆きを聞いて下さらない。私は神から見捨てられてしまった…、という計り知れない絶望と孤独がそこ満ちています。しかし、読み進めていくと不思議なことに気付きます。それでも、祈りの言葉は次第に神への信頼に変わっていきます。神は私を見捨てることなく、共にいて下さっているという信頼に変わっているのです。そして最後は「主のみ前にひれ伏し、皆が神の救いの恵みを喜び伝える…という神を賛美する言葉で結ばれています。

 イエスは、決して父なる神から見捨てられ、絶望の内に死んだのではありません。多くの人々は言います。「イエスは、十字架の上で、神に見捨てられたと嘆きつつ死んだ。そのような者がどうして救い主などであろうか」と。イエスの言葉と十字架の出来事は、多くの人々の躓きともなるものです。これをどのように受け止めるかによって右と左に分かれるのです。それは、世の終わりまで続きます。  

 福音書記者たちは、このイエスの嘆き悲しみを通して何かを伝えようとしました。それを私たちは正しく受け止めなければなりません。神の子イエスの死の現実、そして全地を覆った暗闇。これを私たちは、自分が生きているこの社会にある悲惨な現実と、そこを覆っている暗闇との関連の中で受け止める時、意味あるものとして私たちに迫って来るものがあります。今も、イエスの十字架の時と同じような出来事がこの世界で起こっています。私たちはその渦中にあります。そこに目を向ける時、私たちもイエスと共に叫ばずにはいられません。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか…。」

その時私たちは、イエスが十字架の上で体験されたあの苦しみを知り、あの暗闇を体験しているのです。その時イエスが、十字架の上で、父なる神に見捨てられた時の恐怖と絶望を知るのです。イエスの十字架が本当に分かるとはそういうことです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」このイエスの絶望の叫びが、私たち自身の叫びとなるところで、私たちは、イエスの十字架の死の本当の意味を知らされるのです。昔、二千年前に、こんな立派な人がいて、十字架の死に臨んでも、父なる神への信頼を失わなかった人がいました。この方を見倣って私たちも生きましょう、という綺麗な話ではないのです。

私たちが生きているこの世の現実は、私たちの思いを打ち砕きます。私たちの現実、私たちが体験するこの世の暗闇、神に見捨てられているとしか思えない絶望、それをイエス自身が体験し、味わい、その絶望の内に死んで下さった。だからこそ、私たちはそこに救いを見るのです。  

 イエスは、私たちを支配している暗闇の現実を体験し、私たちと同じ絶望を味わい「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫びながら死んで行かれました。その死は、地上の全ての理不尽な現実の中で死んでいった人々の痛み、悲しみと重なる死です。絶望の中の死です。という事は、イエスの死も、理不尽に殺されていった人々の絶望的な死の中の一つに過ぎなかったのでしょうか。そうではありません。絶望の中で死んだイエスは、神の子だったのです。十字架の上で叫び祈られたイエスは、その絶望の中で「わが神、わが神」と御父に語りかけています。絶望の中においても、このように語りかけることのできる方、イエスが「私の神、私の神」と叫ぶ方に向かって、私たちも同じように祈ることが出来るようになったのです。この時から、この世の全ての理不尽は、私一人の「なぜ」ではなくなったのです。そこに、大変重要なことが示されています。イエスと御父との関係、そこには決して切れることのない「わたしとあなた」という関係があります。イエスは十字架の苦しみと死の絶望の中でも、父なる神との関係を持ち続け、子として父に問い続けているのです。決して、父なる神を恨みながら死んだのではないのです。神に見捨てられたと思われる最高に悲惨な状況の中で、なおその神に問い続ける姿。父なる神との関係を最後まで失うことなく息を引き取られたイエスの姿がそこにあります。それゆえに、イエスの十字架は特別な出来事なのです。理不尽に殺された多くの人々の絶望的な死を担う、特別な死なのです。イエスの十字架の死によって初めて、この世界に新しい光が差し込んできたのです。

そのことを語っているのが、「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」という38節の言葉です。神殿の垂れ幕、それはエルサレム神殿において聖所と至聖所を隔てていた幕でした。旧約時代、至聖所は神がご自分を現される場で、大祭司のみが年に一度入ることが許された場です。それ以外の時は神殿の垂れ幕によって阻まれていました。その垂れ幕が、イエスの死と共に真っ二つに裂けた、と福音は語っているのです。それは、神と人間を隔てていた人間の罪が、イエスの十字架の死によって赦され、私たちが神の前に出ることを妨げるものはなくなったということです。罪を赦された私たちが、神の前で祈り、神との交わりに生きることができるようになったということです。まさに扉は開かれました。その扉の向こう側には、どのような世界が開かれているのでしょうか。もはや何の苦しみも悲しみもない世界なのでしょうか。そうではありません。それは、この世の終わりの救いの完成においてのみ実現することです。それまでこの世界は、まだ人間の罪の闇に覆われている世界です。今も同じです。しかし、神の御子がその闇の中に入って来られ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死なれた…。ここが重要なのです。このイエスの死は、絶望と闇の中に閉ざされている私たちに、その只中で「わが神」と呼び、その神に信頼して歩む道を切り開いたのです。イエスがこの絶望の叫びを父なる神に向けて語って下さったことによって、私たちも絶望の中でイエスと共に、父なる神に向かい、その方を「私の神」と呼びつつ嘆き訴える道が、困難を乗り越える力を与えて下さいと訴える道が開かれたのです。これが、イエスの十字架の死によって起こった出来事です。

神に見捨てられてしまったとしか言いようのない苦しみ悲しみ絶望の中で、それでもなお、神から離れることなく、イエスと共に父なる神に語りかけ、その神の言葉を聞く事が許されているのです。私たちの前に立ち塞がり、私たちを閉じ込めている暗闇大きなものです。私たちは自力で新たな道を切り開くことはできません。しかし、イエスの十字架の死によって、その幕は真っ二つに裂けたと聖書は語っているのです。闇に閉ざされていた私たちに希望の光が差し込んでいるのです。

 イエスが息を引き取るのを見た百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」と言っています。彼がそこで見たものは何だったのでしょうか。彼は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで、絶望の内に死んでいくイエスを見ました。そこに、イエスと父なる神との確かな関係、失われることのない絆を百人隊長は感じ取ったのです。あの見捨てられた状況の中においても、神との確かな関係を保ちつつ死んで行くイエスの姿を見たのです。絶望と闇に閉ざされているこの世界の現実のただ中で、神の子イエスが十字架にかかり、地上の全ての痛みを身に負って死んで下さったことによって、神と人間とを隔てていた幕は開かれました。地上を覆っている全ての絶望と闇を照らす光は、そこから差し込んでくるのです。