今日の福音は8章とつながっています。イエスはそこで「わたしは世の光である。わたしに従う者は、決して暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(8章12節)と宣言しておられます。暗闇の真只中にあった盲人に光を与えながら大切な事を教えておられるのです。

イエスは、この人をすぐに癒やされるのではなく、わざわざシロアムの池に行って、目を洗うことを要求しています。その後、彼は闇から光に移されることになります。目が見えていても、光であるキリストに気付かず受け入れないファリサイ派の人々。彼らの姿も印象的です。見えているはずの彼らも、実は霊的には盲目だったのです。

このように、イエス・キリストという存在の前にあっては、意識しているか否か関わらず、人間はふるい分けられます。ファリサイ派の人々は光を嫌い、闇に留まることになります。彼らは自分たちの罪も自覚できていません。そういう意味で彼らは盲目なのです。

私たちはどうでしょうか。私たちは、キリストに聞き従ったあの目の見えない人に倣うよう招かれています。

今日の福音から、地上の生活の痛み苦しみの意味を見出すことが出来ます。私たちは、遠くの人が災いに遭っている時は、世の中はそのようなものだと割り切るかも知れません。しかし、それが自分の身に降りかかると、なぜ自分がそんな目に遭わなければならないのかと戸惑います。人間は、自分には甘く他人には厳しい目を向けやすい者です。このような傾向は、弟子たちの生き方にもありました。弟子たちは、生まれつき目の見えないこの人を見て「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。この両親ですか」と聞いています(2節)。「苦しみには原因がある。それは、その人が罪を犯した罰か、その人の両親、または先祖が罪を犯したからだ」と考えていたようです。しかし、イエスは全く違う視点から答えています。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現われるためである」(3節)。イエスは、苦しみの原因ではなく、「苦しみの目的」に目を向けさせているのです。私たちは苦しみに会うと「なぜ私が、どうして…」と、すぐにその原因を突き止めようとします。イエスの言葉に促されながら、私たちも苦しみの目的がどこにあるかを考えてみましょう。「神の業がこの人に現れるためである」というイエスの言葉はどういう意味でしょうか。

「神の業」とは何でしょうか。それは神の祝福の計画が実現することです。イエスは、不幸と思われる出来事があったとしても、親が悪いかったからとか、先祖の祟りだとか、そういうことは仰いません。まして、神に呪われているなどとも言いません。あなたの将来には希望がある。あなたの苦難は祝福に変わる。闇から光が生まれる…という事を教えておられるのです。

ここで、私たちが心に留めなければならないことは何でしょう。それは闇から光に移されているということです。イエスは癒やしのみ業を行われる前に、「わたしは世の光である」と語っておられます。(5節)この盲人は、生まれてから一度も光を見たことがなかったでしょう。長年、闇の世界しか知らなかった人です。光を知らない、見たこともないこの人の姿。それは、私たちの姿なのです。イエスは彼に、シロアムの池に行って目を洗うよう命じています。(7節) 池の水自体にいやしの効力があるのではありません。彼がイエスのことばに従ったということに大切な意味があるのです。

シロアムの池は、(イザヤ書8章6節)エルサレムの神殿の下から流れ出て南下する川の水です。ですから、これはメシアのシンボルなのです。「シロアム」(訳して言えば、遣わされた者)という説明までなされています。父なる神から遣わされたメシア、イエス・キリストなのです。この癒やしのみ業は、遣わされた救い主イエスのみ業でした。その後、この盲人がイエスに再び会うことができたのは、彼が追放された後のことです。(35~38節)  彼はイエスに再会して、「主よ。私は信じます」と告白をしています。これまでの人生の中で、一度も見たことのない光を彼はイエスのうちに見出しました。この感動的な場面とは正反対の立場にあるのが、ファリサイ人たちの姿です。彼らは、自分たちは目が見えていると思って生きています。

神は、パウロが弱さに打ちひしがれていた時こう言われました。「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は、弱さのうちに完全に現される」と。(Ⅱコリント12・7~8)。神の奥深い神秘を知る恵みを、パウロは謙遜と従順の中で見出しました。彼の信仰の土台はそこにあったのです。

イエスは、生まれつき目の見えない人に、愛の眼差しを注ぎ神の業が現れる対象として見ておられます。しかし、ファリサイ人たちは冷たい見方しかしていません。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか」と言って、彼を外に追い出しています。こうして目の見えない人はユダヤ教の社会からも追い出されています。ユダヤ教の世界にも、この世のどこにも彼の居場所はありません。けれども、たった一人、彼を見離さなかった方がおられました。それはイエスです。彼が追い出されたことを聞いたイエスは、彼を見つけ出して言われます。この時の彼を見つめるイエスの眼差しを想像してみてください。人々から見離されたこの人を、イエスはわざわざ捜し出し、見つけ出して、祝福を与えておられます。

闇から光に招かれているこのような人々が、今の私たちのまわりにも沢山いる事でしょう。私たちは様々な出会いの中で、そのような人々にキリストの眼差しを届ける者でありたいと思います。このキリストの暖かな眼差しを伝えるために召されているのです。

私たちが「どうして」と問いたくなる状況の中に、神の目的があります。イエスは、原因を問い続ける人々の歩みの中に「神の業が現れる」という目的を示されました。イエスを信じるということは、この神の眼差しと共に、目的を見るものとされることです。

「どうして」と、原因を問う歩みは過去に目を向けることです。しかし、目的を問う歩みは将来に目を向ける歩みです。それがどのような原因があるのか知ることは出来ない、けれども、そこには目的があることを信じて、神のみ業が現されることを待ち望むのです。それこそが、キリスト者の歩みなのです。

私たちは、自分の願望から神を求めてしまいます。癒されない病を、神の力によって直してほしい。努力しても叶えられない自分の願望を叶えてほしい。そのような思いで、神を求める。自分の力が及ばないことを神の力によって解決しようとする。そこには、「奇跡」を求める人間の思いがあります。

苦難の中にありながら、イエスと共に「神の目的を見出す者となる」…、それが、イエスの言う「神の業が現される」ということです。この目的の中で、全ての出来事を受け止めなければなりません。私たちは、ここで、イエスご自身が、神の目的に生きられた方であることを思い起こします。この時、イエスに対して石を投げつけようとする人々もいました。神の目的のために歩む時、人々の憤りと憎しみが湧き上がります。そのような中で、イエスは十字架へと赴かれました。

他の福音書においてイエスの十字架上での言葉は、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と叫ばれています。そこで、イエスは「どうして」という原因を問うておられます。それはそうです。神の子が神から見捨てられる…。これ以上の不条理が他にあるでしょうか。ここに真の「どうして」があります。しかし、ヨハネ福音書では、イエスの最期の言葉は「成し遂げられた」という一言です。人間的に見るならば「どうして」としか言いようのない十字架において、「神の業が成し遂げられた」とイエスは語っているのです。ここに、最終的な神のみ業、目的があるのです。本当に私たちの闇を見つめ、そこに身をおいてくださるイエス。生まれつき目の見えない私たちに、目を留められるイエスの姿が私たちに見えているでしょうか。

イエスは私たちの闇に身を置かれました。それによって、今まで私たちを支配していた闇は、私たちを支配出来なくなります。物乞いをしていた、目の見えない人は長い間、闇の中を歩んでいました。その闇に目を留め、その闇を深く理解して下さるイエスと彼が出会った時、「どうして」という問いが、神の目的を生きる者へと変えられていくのです。イエスによって目を開かれた私たちは世に遣わされていきます。神の目的が成就するその時まで、十字架において示されている神の目的を見つめながら歩む者とされるのです。この世の闇から真の光が生まれます。