私たちは、心の豊かさを求めて生きています。たとえ貧しくても、心は豊かでありたい、そう願うのは当然ではないでしょうか。ところが、イエスは「心の貧しい人々は幸い」と語っているのです。それは、どういうことでしょうか?

私たちの心は、必ずしも広くもなく、豊かでもなく、愛に富んでもいません。特に、考え方の違う人を受け入れることは難しく感じます。相手の考えや状況をよく理解して対話する心の余裕があれば、この社会はもっと住みやすくなっているでしょう。心の貧しさゆえに様々な問題が起こっているのです。このように、私たちはまことに心の貧しい者です。イエスの言われる「幸い」とは、私たちが自分の努力で得られる幸いではありません。神から与えられるものです。

「天の国は近づいた」というのがイエスの第一声でした。天の国は、心貧しき者に神から与えられる恵みです。それが、心貧しき者の幸いなのです。そういう人は、神の救いに寄り頼んで生きるしかありません。そのように天の国を本当に必要としている者に、神は深い憐れみによってその恵みを与えて下さるとイエスは語りました。どのようにして、この恵みが心貧しき人々の幸いになるのでしょうか。それは、イエスが背負ってくださった十字架のゆえにです。だから、「あなたは幸いだ。喜びなさい」と言われているのです。「あなたは、自分の中に豊かさを持とうと頑張らなくてよい。嘆かなくてもよい。あなたがどんな者であっても、私はあなたを知っている。これからも、あなたを導く。だからあなたは喜んでよいのだ。安心して生きてよいのだ…。」という招きです。

 私たちは、もともと心貧しき者です。それでも、私たちが喜んで生きていけるように、イエスは十字架の死と復活によって神からの救いを約束してくださいました。その恵みに寄り頼み、感謝して生きる…、それが私たちの信仰の基本です。その幸いの中で私たちの貧しい心は、次第に広げられ、豊かにされていきます。人を受け入れる寛大さも与えられるのです。

 ここには、イエスの語りかけを自分自身に対する語りかけとして聞いている弟子たちの姿があります。同時に、それを外から眺めている群衆の姿もあります。群衆も、イエスの姿を見ています。そしてイエスの言葉を聞いています。しかし、彼らは外側からイエスを評価し聞いているだけです。同じような事は、今日の私たちにもたくさんあります。イエスの教えに驚きながら、魅力を感じながら、 感動しながら…。しかし、どんなに感動しても、その人の立ち位置があの群衆と同じように、自分の外にイエスを置いて眺め聞いているだけならば…。福音はまだその人のうちに届いてはいないのです。

私たちはどうでしょうか。あの群衆のように、外からイエスを眺め、外から教えを聞き、外からの判断と評価だけで生きようとするならイエスを悲しませることになります。マタイが語るキリスト者とは、キリストについて行く者として、イエスの近くに寄って、イエスのことばを自分に向けられたことばとして聞く者のことなのです。

福音書に記されているイエスの言葉は、読者への語りかけとして書かれています。イエスからの語りかけとして福音を聞くとき、まず飛び込んでくるのが、「心の貧しい人々は、幸い。天の国はその人たちのものである」という言葉です。私たちが、日常体験している不幸としか言いようのない様々な出来事の中にありながら、それでもマタイは「幸いなるかな…」と語っているのです。あなたがたは、不幸な人間として生きるために創造された者ではないと言っているのです。これ以上、暗闇の中に留まる必要はないのです。イエスと共に到来した光があるのです。イエスがもたらされたこの光と幸いの中で生きるように造られているのが人間なのです。

 イエスの言葉を自分への語りかけとして聞くとき、私たちは自分の貧しさを経験します。イエスが語る貧しさとは、根源的な生き方における貧しさのことです。イエスの言葉をただ「道徳的教え」として受け止めているならば、それは外からイエスを眺めていることになります。「あなたがたは地の塩、世の光である」というイエスの言葉も、外から眺めている限りにおいては、美しい教えで済みます。しかし、私たちがイエスによって地の塩、世の光として生きるよう招かれているとするならどうでしょうか。他ならぬ自分自身への語りかけとして受け止めるならどうでしょう。私たちは自分の貧困さ、罪深さと対面せざるを得なくなるのです。

 外からイエスの教えを眺めている間は、すばらしい教えとして感動できても、自分自身への語りかけとなるとそうはいきません。あなたを苦しめている人、あなたを痛めつけてやまない人、「そのような人を愛しなさい。 その人のために祈りなさい」と言われるのです。最も身近な者さえ愛することができないのに、どうやって敵を愛するのでしょうか。私たちの心のどこに、そのような愛があるのでしょうか。私たちは、そこで自分自身の愛の貧困さと向き合わなければならなくなります。それに気付きなさいとイエスは言われるのです。「あなたがたは世の光であれ」と言われたイエスは、自ら「わたしは世の光である」 と語られた方です。そして実際にそのように生きた方です。敵を愛しなさいと言われた方は、自ら敵を愛しました。自分を十字架につけた人々を愛し、彼らのゆるしを祈られた方です。この方と向き合い、この方の語りかけに耳を傾けるならば、私たちは自分の根元的な貧しさを自覚するようになります。そして「主よ、わたしを 憐れんでください」と叫ばざるを得なくなります。私たちは元来、自分の貧しさなど認めたくない者です。自分を群衆の側に置いてイエスの言葉を聞く方が楽なのです。そこでは、 自分の現実に向き合う必要もないでしょう。

自分の貧しさを自覚しながら祈る者がなぜ幸いなのか…。それは、その祈りが確かな真実に基づいているからです。人間はそこで神が何であるかを知り、神を意識します。イエスの語る天の国とは、単なる希望ではありません。生きておられる神が、今の私とあるがままに関わってくださっている恵みの真実です。

 ここに示されている姿を本当に生きた方は、イエスご自身でした。だから、イエスの言葉は「権威ある新しい教え」として人々の心に深く響いたのです。主は、今も私たちに語りかけておられます。「わたしのためにののしられ、迫害され、あらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい」…と。どこにいても、この福音の喜びを生きるものでありますように…。全ての体験が恵みの体験に変わりますように…。