神の言葉を聞こうとして押し寄せてくる群衆を見たイエスは、シモン ペトロの舟に乗り、岸から少しこぎ出した位置から群衆に向かって語り始めます。群衆は岸辺でイエスの言葉を聞いていますが、ペトロはイエスのすぐそばで神の言葉を聞いているのです。何という幸いでしょう。話し終わってからイエスはペトロに言います。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。
漁師として経験を積んだ弟子たちが、夜通し苦労して働いても何も取れませんでした。ですから、イエスの言葉は彼らには理解できなかったはずです。しかしペトロの素晴らしいところは、それでもイエスの言葉を拒まないところです。経験ある自分たちが夜通し働いても何も取れなかったにもかかわらず、ペトロは言います。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と。イエスに対するペトロの尊敬と信頼が現われています。「他ならぬあなたがそうおっしゃるのですから、やってみましょう」と彼は答えているのです。自分の常識や経験よりも、イエスの言葉に従う者になりたいというペトロの素直な気持ちでしょう。
そして、沖へ漕ぎ出し網を降ろしてみると、網が破れそうなほどおびただしい魚がかかり、二艘の舟とも沈みそうになるほどであったということです。この経験をさせることによって、イエスが彼らに伝えたかったことは何でしょうか。それは、神の言葉の力です。神の言葉は、人間の常識を超えて働きます。そのイエスの言葉に従うとき、神の圧倒的な恵みがそこに注がれます。落胆と疲労の中にありながらも「主よ。お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と語ったペトロの信仰から、私たちも大切なことを学びたいと思います。
「重みで舟が沈みそうになった」とある通り、弟子たちの人生もここからまさに、神の圧倒的な恵みに揺さぶられる体験となっていくのです。彼らが、本当の意味でイエスの弟子となるためにこれは必要な体験でした。けれども、弟子たちはこの奇跡によって弟子になったのではありません。むしろイエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と叫ぶペトロの姿に意味があります。自分がいかに罪深い者であるかに気付かされて初めて本当の弟子とされていくのです。
イエスと共にいることに恐れを覚えるほどの気持ちにされたペトロは思わず「主よ、私から離れてください」と叫びました。なぜ、み前に立つことができないのでしょう。それは相手が神だからです。ペトロはこれまでもイエスの近くにいました。しかし、イエスが神であるという認識はありませんでした。今、彼は神の恵みに魂を揺さぶられる体験をしています。そしてイエスのもとにひれ伏さずにはいられなくなりました。
このペトロにイエスは、「恐れるな」と語りかけています。それは、かつて マリアにもヨゼフにも語られた言葉でした。今、イエスご自身がペトロに語りかけておられます。イエスご自身が「恐れることはない」と語りかけて下さるからこそ、私たちはイエスのみ前に立つことができるのです。続けてイエスは、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われます。イエスは、御自分のみ業のために、私たちを用いようとしておられるのです。
これが弟子たちの体験したことでした。これによってペトロたちは、徐々に本当の弟子に変えられていくことになります。大切なことは、私たちが様々な限界の中で イエス・キリストを通して神に出会うかどうかです。イエスに対する思いが私たちの中に生じ、イエスについて生きたいと願う気持ちが与えられるなら、「恐れることはない」という招きの声も聞こえてきます。本当の信仰は、イエスの招きに応えていくところに与えられるものです。信仰の神髄は、このイエス・キリストとの出会いの中にあるのです。
これは、最初の弟子たちの召命物語です。イエスは、学者や身分の高い人たちではなく素朴な漁師たちを弟子に選ばれました。選ばれるに相応しい資格や素質が彼らにあったからではありません。そのような人は誰もいません。これ程の体験をした弟子たちも、最後は十字架につけられた主を見捨てて逃げてしまいました。彼らが本当の意味で弟子になれたのは、イエスの死後、復活の主に出会ってからなのです。召命は人間の業ではなく、あくまでもイエスの自由な選びによる神のみ業です。
一生懸命頑張りながら、徒労に終わる現実の中でオロオロする弟子たちの姿。それこそ今の私たちに勇気と希望を与えるものです。キリスト者は、自分の貧しさと限界の中で神の愛を知る者、そしてその愛を伝える者へと変えられていきます。「あなたは、今から後人間をとる漁師になる」というイエスの言葉は、イエスと共にある喜びを生きる者になりなさい、そして神の愛を伝える者になりなさい、という事だったのです。