ナザレの人々はイエスをほめ、その恵み深い言葉に驚きながらも、ここでも自分たちの望む形で奇跡を見せてもらえたなら信じてあげようと言っています。彼らにとっては信仰さえも、自分が中心になっていることが分ります。人間の価値観に基づいたところに信仰の基準を置く危険がそこにあります。イエスは、列王記上17章に出て来るエリヤと列王記下5章のエリシャの例をあげて説明しています。

 エリヤは、三年以上に及ぶ旱魃によって飢饉が起った際、サレプタに住む一人のやもめのもとに神から遣わされ、彼女の家族を救いながらエリヤ自身も危機的状況から救われる体験をしました。イスラエルの民にとって そこは外国、やもめは異邦人です。多くのユダヤ人が飢饉で苦しんでいた時、神はエリヤをわざわざこの地に遣わし、そこで神の救いが何であるかを体験的に学ばせました。 

 また、シリアの軍司令官だったナアマンは、エリシャによって重い皮膚病を癒された人です。ナアマンは敵国の司令官です。当時、イスラエルにも皮膚病の人は大勢いたのに、癒やされたのは異邦人ナアマンのみでした。神の民と自負し、その救いに与る権利があると信じていたイスラエルの民ではなく、彼らが蔑む異邦人に救いが与えられた…その意味を考えなさい、とイエスは言っているのです。これは決して昔の話しではなく、このナザレでも現に起っていること。神から選ばれた民としての自覚があるなら、もっと心打ち砕かれた者になっているはずだ…、イエスはそう語っているのです。

 ナザレの人々は、自分たちこそ本当の神を知っている。だから自分たちを納得させるだけの証拠として奇跡を行え、とイエスに要求しているのです。この人々に向かって、神の救いはあなたがたから取り上げられ他の人々に与えられる、と語っているわけですから、これを聞いた人々は憤慨してイエスを崖から突き落とそうとします。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去りました。その時は まだ来ていなかったのです。ナザレの人々が、イエスに対して敵意を持つに到ったことは重要です。ルカはこの話を、福音書を読む全ての人々にも分ってもらおうとして、わざわざ書いているのです。

 イザヤ61章で語られていることは「今日、あなたがたの間に実現している…」とイエスは語りました。そこで語られる恵みの年とは、レビ記25章でも語られています。7年毎の安息の年を7回繰り返した翌年が「ヨベルの年」です。その年には、過去49年の間、借金のかたにとられていた土地も元の所有者に返され、身売りされていた奴隷も解放される恵みの年です。

 このヨベルの年は、イエスによって実現される救いを前もって示しています。借金は返さなければいつまでも残るように、罪も、償われない限り消えることはありません。それは神と人との関係を破壊するものだからです。しかし私たちは、それを自分で償うことはできません。そのような私たちのために、イエス・キリストが存在します。イエスは私たちの罪を引き受け下さいました。それがイエスの十字架の死です。イエスはご自分の命を与えて下さることによって、私たちのためのヨベルの年を宣言して下いました。この救いの恵みがイエス・キリストによって今や実現しようとしている、それがここで語られている恵み深い神の言葉なのです。

 しかし、ナザレの人々はイエスの言葉を受け入れないばかりか、逆に証拠を求めています。自分たちが納得する形で証拠を見せたら信じてあげよう、というのが彼らの姿勢だからです。飽くまでも判断するのは自分たちなのです。そのような考え方において一番偉いのは自分です。神さえも、人間に証拠を示して認めてもらわなければならない立場にあるのです。それは明らかに本末転倒です。そのような思いでいる限り、私たちは神と出会うことはできません。その救いにあずかることもできません。ですから、イエスは彼らに、神に選ばれた救いの恵みはあなた方から取り上げられ、他の人々に与えられると語っているのです。

  人間の立場から自分に都合の良い救いを求める生き方ではなく、神の示される導きに自分を委ね、それに信頼して一歩踏み出すことこそ私たちに求められている信仰です。私たちは神に対しても、隣人に対しても大きな負債を負っています。

 旧約時代に告げられたヨベルの年 … それは、イエスを通して実現されました。イエスはその恵みの時を告げられておられるのです。

  コロナ禍によって、教会は先の予測が出来ない困難な状況にあります。しかし、希望を失うことはありません。そこに、主は確かにおられ導いて下さるのです。同じような試練は過去にもたくさんありましたが、全てが恵みに変えられました。

  今、私たちは新しい出発の時を迎えようとしています。徳田教会と新役員たちの上に、聖霊の導きと助けがありますように祈りましょう。また、これまで支えてくださった旧役員の方々の奉仕にも心から感謝しつつ…。