「貧しい人々は幸い…、富んでいるあなたがたは不幸である…イエス誰に話しておられるでしょうか。 イエスに従って来た弟子たちや人々に対してです。ということは、イエスを信じ従っている人々の人生においても幸いと不幸はあるのです。どういう事でしょうか。貧しい人々が幸いのは、神の国が彼らに与えられているからです。神に信頼して生きる術を彼らが知っているから幸いなのです。そのような意味で幸いな者となれ…、それがキリスト者に与えられている神の国の恵みです

 逆に、富んでいる人々が不幸のはなぜでしょうか。それは、この世の富しか見えなくなり、その中で十分慰めを受け満足しているからです。それは実は不幸なことなのだと語っているのです。自分の持っているもので十分安心を得ているのです。すでにあるものに依り頼んで、そこに安心をおいて生きるとすれば それは信仰ではありません。

 今飢えている人々…。今満腹している人々…。今泣いている人々、笑っている人々…で語られている言葉も同じです。どうすれば本当の幸不幸が分るのでしょうか。「今」だけでなく「将来」を見つめながら生きているかどうかが問題なのです。今の現実のみを見るならば、富んで、満腹して、笑っている人こそが幸いでしょう。しかし、イエスの語る視点から現実を受止めるならば、必ずしもこの世の貧しさや困難が私たちの人生を不幸にするものではないということも分ります。

私たちがここから読み取るべきことは、地上において不幸としか思えないような人生であっても、神のみ前における将来の救いに目を向けることによって、本当の幸いを知りそれに与ることができる、そういう神の約束が与えられているということです。その幸いとは、私たちの人生を導いておられる神との交わりに生きる幸いです。

人々に憎まれること」と「ほめられること」も対比されて書かれていますが、これも自分の罪や業績の話しではありません。憎まれるとは、イエスを信じるゆえに追い出され、ののしられ、汚名を着せられるこの世の現実のことです。つまり、信仰ゆえに 場合によっては人々から憎まれ、共同体から追い出され、汚名を着せられることもあり得る。しかし「それでもあなたがたは幸いだ」とおっしゃいます。この世の人生を超えて導く神がそこにおられるからです。この神を見つめながら、神の導きに委ねながら歩む信仰をイエスは望んでおられるのです。私たちはそこに希望をおいて歩みます。貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々の現実は変わりません。その解決のために働くのは当然なことです。しかし、最終的にはイエスの十字架の苦しみと死、復活抜きにこの問題は永遠に解決しません。世の終わりに与えられる救いの完成を待ち望みつつ、今の現実を受止める視点。それをイエスは学ばせようとしているのです。

第二朗読で読まれたパウロの手紙が参考になります。今私たちに与えられている恵みは、将来与えられる恵みの、ほんの一部に過ぎないものです。救いの完成は将来のことです。しかし今の現実の中にあってその希望を待ち望むことができるのは、すでに恵みが与えられているからです。私たちは、この人生において、イエス・キリストを信じ、洗礼を受けて、その十字架の死と復活にあずかり、新しく生かされる者です。ある意味で私たちは、復活の恵みに今この地上の人生においてすでに与っているのです。けれどもその恵みは、地上の歩みの中で未だ完成はしていません。すでに恵みにあずかっているけれども、未だ完成はしていない。この「すでに」と「未だ」の間を私たちは生きているのです。すでに与えられている恵みによって生かされつつ、未だ完成していない恵みを待ち望みつつ、希望を持って生きる…、それがキリスト者の信仰なのです。

「死者の復活などない」(1512)と言っている人々は、自分が体験した「すでに」の面だけを見ており将来の恵みを見ていません。そうすると今の恵みだけが全てになるのです。しかし、イエスが私たちに約束しておられることは遙かに大きなものです。死者の復活を信じるということが、すでに大きな恵みです。それは、人間の努力だけでは完成しない、日常生活を超えた信仰の神秘なのです。

パウロは語ります。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(19節)。キリストに望みをかけ、信仰によって生きているとしても、そこで見つめているものが「この世の生活のみ」であるなら、それは「全ての人の中で最も惨めな者」の姿だと言っているのです。私たちは、キリストに望みをかけ、信仰によって生きることを希望しています。けれどもその結果が、この世の命を充実させ、喜びを与えるものを探しているだけの信仰なら虚しいと言うのです。キリスト者でなくても立派な人は沢山います。キリスト者でなくても社会のためになるよい働きをし、喜びをもって生きている尊敬すべき方々が大勢います。

では、パウロが言っていることは何なのでしょうか。私たちの目標は、自分の価値観に基づいて自分の人生を有意義なものにすることではないということです。イエスが私のために地上の人生を生きてくれた、その事実に基づき、そこに希望をおいて生きることなのです。イエスの十字架と復活を忘れて、どんな素晴らしい働きをしても それだけでキリスト者となる訳ではありません。この神の恵みの中に身を沈めることが私たちの信仰の出発点です。そのことによって私たちは、失敗や挫折に苦しむことが多くても、志半ばで世を去らなければならないとしても、イエスを通して神が約束して下さった救いの完成を待ち望みつつ、最後の日を迎えることができるのです。