「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。これはイエスが私たちに語りかけて下さっているみ言葉です。考えてみれば、私たちの毎日は、否応なしに心を騒がせられる事ばかりです。そのような私たちにイエスは、「心を騒がせるな」と語りかけておられます。どのようにして、心を騒がせずに生きる事ができるのでしょうか。
不安や恐れを引き起こす事ばかりを心配し、そこに引っかかっていても心を落ち着かせることはできません。そのような事から、いったん目を離して神に目を向けることが大切です。実は、このように語られるイエスご自身、この世を歩まれた時、心を騒がせる体験をしています。ヨハネ11章33節と12章27節の場面です。
11章33節では、ラザロの墓の前でその死を悲しんで泣いている人々を見て心に憤りを覚え、興奮されるイエスの姿があります。愛する兄弟ラザロの死によってマリアは心を引き裂かれ泣いています。そのマリアの悲しみを見たイエスも心を騒がせ、涙を流されました。(35節) 人間の悲しみに涙を流し、心を騒がせるイエスの姿です。
12章27節では「今、わたしは心騒ぐ」と言っています。その「今」とは…。「人の子が栄光を受ける」時(12・23参照)です。イエスは、十字架にかかって死ぬことによって栄光をお受けになるのです。十字架の死と復活によって神の子としての栄光を受ける、その時がいよいよ来たことを意識してイエスは、「今、わたしは心騒ぐ」と言われました。それは、罪と死の力に支配されている私たちのために、心を騒がせ、涙を流すイエスの愛です。イエスが心を騒がせておられるのは、ご自分のためではなくて、私たちのためです。イエスが、私たちのために心を騒がせ、涙を流し、十字架にかかって死んで下さったことによって、イエスによる救いが実現しました。心を騒がせつつ十字架の死へと歩んで下さったイエスがおられるから、私たちは安心して地上の現実を歩むことが出来るのです。イエスは今、この世から父なる神のもとへ行こうとしておられます。
「あなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所にあなたがたもいることになる」。
これは、イエスの約束です。十字架の死と復活によってイエスはこの世から父なる神のもとへと移ろうとしておられます。それによって私たちは、イエスの姿を見ることはできなくなります。しかしそれは、私たちのために場所を用意することである、と語っているのです。イエスがこの世を去って父なる神のもとに行かれるのは、私たちのための場所を用意するためです。これは、イエスにしか出来ない事です。
救い主イエスは、聖霊の働きによっていつも私たちと共にいて下さいますが、そのことは私たちの目には見えず、感じることもできません。
二千年も前に地上を生きていたイエスが、今も私たちの救い主であられるなどということをどうして信じる事ができるでしょうか。そのような私たちにイエスの約束は、本当の希望がどこにあるかを教えてくれます。様々な辛いこと、悲しいことによって共におられるイエスが見えず心騒がせながらも、決して失望することはないのです。同じ体験をされたイエスがおられるから、イエスの約束があるから…、私たちは、イエスのうちにある信仰、希望、愛を生きるのです。
将来の救いとは、イエスが私たちを父なる神の家へと迎えて下さり、イエスのおられる所に私たちもいるようにして下さる、ということでした。それは私たちが父なる神のもとで、イエスと共にいる者となるということ、父なる神がイエスに与えて下さった復活と永遠の命を私たちも与えられ、私たちも永遠の命を生きる者となるということです。イエスは今、父なる神のもとで、私たちをその救いにあずからせるための準備をして下さっておられます。この約束があるから私たちは、この世の歩みにおいて苦しみや悲しみがあっても、それによって決定的に心を騒がせられてしまうことなく、父なる神とイエスに信頼して生きることができるのです。
「あなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」とイエスは言いました。父なる神のもとに行かれたイエスが、戻って来られるのです。戻って来て、私たちをご自分のもとに迎えて下さるのです。イエスが戻って来られることによって救いは完成するのです。苦しみ悲しみによって心を騒がせられずにはいられないこの世であっても、イエスによる最終的な救いが約束されているのです。救いの完成は、イエスがこの世を去って父のもとに行くから実現します。この時の弟子たちは、まさにそのことを体験しています。この後、イエスは十字架につけられ、三日目に復活し、天に昇り、父なる神のもとに行かれます。これによって、イエスの姿は見えなくなります。だからイエスは、「私は去っていくが、あなたがたのための場所を用意しに行く。そして戻ってきてあなたがたを私のもとに迎える」という約束を語っているのです。
「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われても、私たちには分りません。トマスと一緒に「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と叫ぶしかありません。トマスの叫びは私たちの叫びでもあるのです。
「道が分からない、どのように歩めば良いか分らない…」そのような私たちにイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われます。それは、どの道をどのように歩むかではなくて、「イエスのもとに留まることこそが大事だ」ということです。イエスこそが道なのです。それは、イエスの生き方を見倣って同じような道を私たちも歩もう、ということではありません。イエスの歩んだ道を歩めと言われても私たちには出来ません。そうではなくて、イエスこそが道なのです。イエスのもとに留まり、イエスによって救われ、イエスによって生かされ、導かれるところに、私たちの歩むべき道が示されてくるのです。それは、独り子をお与えになる程に私たちを愛して下さる神の愛の真理です。イエスのもとに留まることによって、私たちはその神の愛の真理を知り、それによって生かされるのです。このイエスのもとで、私たちは新しく生きる者とされます。
自分はどう生きるか、どのような道を、どのように歩むか、といくら考えても分りません。しかし私たちは、道であり、真理であり、命であるイエスのもとに置かれているのです。このことを忘れてはいけません。イエスを遣わして下さった父なる神の愛のもとにいます。イエスを通してこそ、私たちは父なる神を知り、父なる神の愛を受けることができるのです。そして、イエスが用意して下さる救いの約束を待ち望むことができるのです。
だから私たちは、心を騒がされることの多いこの世にあって、迷いながらも、嘆きながらも、しかし主が用意して下さる救いの完成に向かって、希望をもって歩むのです。