イエスは、羊と羊飼いの関係になぞらえて御自分と私たちとの関係を語っています。羊のために命を捨てる覚悟をしているイエスの言葉であるだけに、私たちの心に強く響きます。散らされ迷い出た羊を、神御自身が元の牧場に連れ戻って下さることは詩編でも歌われていました。「主は我らの牧者。わたしは乏しいことがない…」。だから、バビロン捕囚という憂き目に遭いながらも、彼らの神への信頼は変わらなかったのです。そこまで彼らと関わり、イスラエルの民を苦しみから救おうとされる神の姿は、捕囚の体験を通して更に深められ、神の愛への信頼に繫がっていきます。彼らのこの確信は、苦しみに会えば会う程強くなっていきました。羊は自分では、牧草地を見つけることも外敵から身を守ることもできません。そういう弱い存在でありながら、羊はよく群れから迷い出ます。そして自分では戻ることもできず、羊飼いが見つけてくれなければ死ぬしかない存在です。
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」。(1節)
羊飼いは、羊を養い守るために来ますが、盗人は殺すために来るのです。だから気をつけなさい、とイエスは語ります。しかし、盗人は誰が見ても分る恰好で来るのではなく、羊飼いの姿で来る事を知らなければなりません。この人について行けば大丈夫、と思えるような者として来るのです。それをしっかりと見分けなさい、とイエスは語っているのです。どのようにして見分けるのでしょうか。それは彼らが、どこを通って来るかを見れば分ると言います。門を通って来るのが羊飼いであり、他の所を乗り越えて来るのは盗人だからです。羊飼いらしく見えるかどうかではなくて、門を通って来るかどうかが大切なのです。
「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」。
イエスこそ、私たちのための門であり羊飼いです。「わたしより前に…」というのは、イエスという門を通らずに来る者たちの事です。イエスによる救いへと人々を導く者こそが真の羊飼いであって、そうでない者たちは盗人なのです。ファリサイ派の人々には、この話の意味が分かりません。彼らは、イエスが語ろうとしていることを理解しませんし、分かろうともしませんでした。自分たちが、羊を追い散らす盗人になっていることにも気付いていなかったのです。
「門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」。(2節~4節)
羊飼いは、自分の羊の名を知っており、一人ひとりの名を呼んで導き、また羊たちもその羊飼いの声を聞き分けてついて行くのです。ファリサイ派が追い出したと思っている人々は、実はイエスによって呼び出され、導かれている人たちです。イエスによって教会に導かれ救いの体験をする、という事がそこで起っているのです。そのような迫害を背景として、今日の福音は語られています。
いつの時代でも、いろんな迫害や困難があります。私たちは、真の羊飼いと盗人を見分けながら、イエスがどこを指し示しているかを知らなければなりません。しかし、見た目だけでは、区別がつきません。だから、あなたがたにはその声を聞き分ける耳が与えられている…とイエスは言います。
「羊はその声を知っており、他の者には決してついて行かない。」あなたがたは、私の声を知っているとイエスは語っています。イエスが私たちに語りかけておられるみことばに耳を傾けているでしょうか。イエスによって豊かな牧草地に導かれ、平安の内に憩うことができると約束されているのです。イエスが来られたのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためです。このイエスは、私たちが永遠の命を受けるための門となって下さいました。それは、イエスが十字架において死んで下さり、復活して永遠の命を生きる者となって下さったことによって実現された神の救いです。イエスの十字架と復活という門を通ることなしに、この救いの恵みを受けることはできないのです。私たちの信仰の歩みは、私たちのために命を捨てるイエスとの出会いを日々深める歩みなのです。
「世界召命祈願日」でもある今日、教皇フランシスコは教会の召命のために祈るよう促しています。昨年の召命祈願日に当たって出されたメッセージで教皇様は次のように語っています。
「ミケランジェロは、このようなことばを残しています。『どの石の塊も、中には彫像が埋もれており、彫刻家の仕事はそれを掘り起こすことだ』。芸術家のまなざしがこうであるなら、神のまなざしはなおさらそうでしょう。ナザレの少女の中に神の母を見、漁師シモンの中にご自分の教会を建てる岩(=ペトロ)を見、徴税人レビの中に使徒にして福音記者マタイを認め、キリスト者への容赦ない迫害者サウロの中に異邦人の使徒パウロを見たのです。その愛のまなざしはいつもわたしたちに及び、わたしたちを新しい人間に変えてくださるのです。」
召命の道は、わたしたちが頑張って自力で到達できるものではありません。それは、わたしたち一人ひとりの中に神が計画し望んでおられるゆえに、あらゆる困難があろうとも実現する道なのです。
去る3月には東京教区の二人(熊坂、冨田)が司祭叙階の恵みを頂きました。それに続く二人の神学生(田町、今井)たちのためにも祈りましょう。教会全体の善益のために、一人ひとりに固有の召命を与えて下さる神の愛の眼差しに支えられ、駆り立てられながら…、教会への奉仕を生きる司祭、修道者がこれからも数多く与えられますように祈りたいと思います。神の民の中から、召命を求める祈りが生まれることを神は強く求めているのです。
神は、マリアにも、ヨゼフにも、パウロを含む他の使徒たちにも…、一人ひとりに固有な召命の賜物をお与えになりました。そこに至るまでの背景は、一人ひとり実に様々です。教会への奉仕の使命に気付かされた彼らに共通していることは、苦難の中にありながらも喜びと勇気を持ってその使命を引き受ける者に変えられたという事です。召命は、人の思いを超えた神の御業であることがよく分ります。そうでなければ、人間はとっくに挫折しているでしょう。一人ひとりの違いや欠点さえも、教会の中で生かされ恵みに変えられていく…、まさに人智を越えた神の働きです。だから、安心して良いのです。ヨゼフもマリアも沢山の不安の中にありながら、その中で安心して神の働きに身を委ねました。日毎に変化する状況の中で、神の望みを生きたいという思いによって、ある時はエジプトへ、ある時はナザレへ…、指し示された方向に幼子を抱き抱えながらの思いがけない旅を続けました。二人の胸のうちはどんなものだったでしょか。神に選ばれた者に用意された道とはとても思えない体験を、二人は幾度となくしています。この世の権力者たちの思いに翻弄されながら、その不安の真っ只中で…、それでも神が用意してくれる牧草地を見出すまで、イエスと共に歩む私たちの旅は続くのです。イエスは私たちの声を知っています。しかし、私たちはイエスの声を知っているでしょうか。