弟子たちが、これからも歩み続けていかなければならない道。それは、イエスによって示され派遣される道です。使徒とは、「派遣された者」という意味です。彼らに与えられた使命とは、イエスの証人、証し人としての使命でした。イエスによって父なる神が成し遂げて下さった救いの恵みを伝えるため、彼らは派遣されていくのです。

 弟子たちはイエスによって、神の国が目に見える仕方で確立するものと思っていました。しかし、イエスが彼らに示した道はそのようなものではなく、イエスの愛の証人となることであることを後から理解します。それは、彼らの上に聖霊が降ることによって実現されるものです。そこに教会が誕生します。そのために必要な使命をイエスは今弟子たちに与えようとしておられるのです。

 弟子たちが考えていた救いとは、ユダヤ人に限定されていたものでした。しかし、イエスは言います。「あなたがたは、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人とならなければならない」。

イエスの言葉通り、この後弟子たちは地の果てにまで福音を宣べ伝える者となります。しかし、そこで注意したいことがあります。それは、この弟子たちの歩みにおいてイエスは、目に見える仕方で共におられた訳ではないということです。そこが、降誕の時と決定的に違うところです。復活以後の主は、私たちの目には見えないのです。

弟子たちの使命は、イエス亡き後の証人となることでした。証人というのは、そこにいない人を証しし、その人によって成された救いを証しすることです。ですから、イエスの証人になるという使命は、目に見える形では共におられないイエスを証しする使命なのです。これまで、いつも弟子たちの目の前で語りかけて下さったイエスはこれからはいなくなります。そのことが起ったのが、イエスの昇天です。

「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(使言9節)。ただ、天に上げられたと語っているのではありません。「雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」のです。イエスを見ていた弟子たちの前で雲がイエスを覆い、イエスを見ることができなくなった、それが昇天において起ったことなのです。

 

使徒言行録を書いたルカは、福音書において同じ出来事を別の表現で書いています。

「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」。(ルカ24・50~51)ここでは、イエスの姿が見えなくなったとは語られていません。弟子たちへのイエスの祝福に強調点をおきながら昇天の出来事が語られています。ルカは「使徒言行録」と「福音書」の両方でイエスの昇天を語りながら、それぞれにおいて別の意味を見つめつつ語っているのです。福音書においては、イエスの生涯の締めくくりとして、弟子たちへの祝福が語られ、イエスの地上の生活の全体は私たちに対する祝福であった、ということが示されているのです。

それに対して使徒言行録では、復活されたイエスが弟子たちに使命を与えた後、彼らから離れ目に見えない存在になる、ということでした。イエスが去っていく、目に見えない存在になる、それは弟子たちにとって大変心細いことだったでしょう。けれども、その彼らに聖霊が注がれます。イエスが捕えられた時逃げ惑っていたあの弱い弟子たちを聖霊は、教会の礎となる使徒となるまで導きました。人間の考えでは決してあり得ない事です。しかし、教会はまさにそのようにして生まれ、迫害の中でも成長してきました。イエスが、弟子たちの前から去っていかれた後に与えられる聖霊。そこに教会が生まれ神の救いの計画は世の終わりまで続けられ、今も前進しています。

 私たちは、そのただ中に置かれています。誰も、復活されたイエスをこの目で見たり、手で触れることはできません。それは、イエスが二千年前の方だからではありません。昇天されたからです。そのイエスの代りに今は、聖霊が働きます。その聖霊が私たちを導いておられるのです。イエスの姿が見えなくなり、戸惑う弟子たちの現実から始まったのが教会の歴史でした。イエスが天に昇り、見えない方になられたからこそ、聖霊が与えられ、イエスを証しする人たちも生まれたのです。ですから、それまでのようにイエスが信じる者たちと一緒にいなくなった事は、神の救いの恵みの前進としか言いようがありません。このことによって私たちは、いつ、どこでも復活されたイエスと共に歩むことができるのです。

イエスの昇天を思う時、同時にそのイエスがまたおいでになることをも見つめるよう促されています。イエスの働きは昇天によって終わるのではありません。主が再び来られる時まで続きます。イエスの思いがある限り、聖霊の導きは世の終わりまで続きます。その教会に連がりながら、目には見えないけれども、復活して永遠の命を生きておられるイエス・キリストに希望をおいて歩むのが私たちの信仰なのです。

 イエスが天に挙げられた事の意味は何でしょうか。イエスが昇って行かれた「天」とは、どこなのでしょうか?

 死者の中から復活したイエスは今も身体をもって生きておられます。山上でのイエスの栄光の輝きを思い起こして下さい。そのとき弟子たちを覆った雲、それは、神の栄光を示しています。地上の役割を終えられたイエスは今、すべての権能を持って、すべてのことを支配しておられる方です。そのような方が、今や、父なる神と、私たちとの間に立ち、私たちの弁護人となって下さっていることを主の昇天は教えています。天に挙げられたイエスは今、御父の元で、私たちのために取り成しておられます。そこは、私たちが自力で近寄ることのできない世界だからです。イエスは、その神の場から、地上に降ってこられ、人となり、私たちの罪をご自分の身に受けて下さった方です。その方が、死んで復活し、天に帰られたことで、私たちの将来の道も開かれたのです。主の昇天は、私たちにも約束されている未来の姿です。神との交わりの姿です。

人となられたイエスが、人となられたその身体を持って、御父の元へ昇られた。だからこそ、私たちも安心して御父の元へ近づくことが許されます。ですから、天に挙げられたイエスを見た弟子たちは喜ぶのです。私たちも、弟子たちと共にこのイエスの喜びを生きるよう招かれています。天とは、イエスと御父がおられるところ、場所の問題ではありません。そこに人智を越える、聖霊の導きがあります。

 人類の歴史が始まって以来、唯一、罪のない方が人となり、私たちに代って十字架を引き受け、ご自分の復活によって罪の力に打ち勝って下さいました。ですから、私たちは安心して自分を委ね待つことが出来るのです。現状がどんな悲惨な状況であろうと、悲しむことも恐れることもありません。神の約束は必ず実現します。神の国は、すでに始まっています。その完成に向かって私たちも、共に歩んで欲しいと主は呼びかけておられます。

 私たちの地上での役割は、この救いの知らせを、地の果てに至るまで、主の証人として伝えることです。どのようにしてでしょうか。それは、弱い人間である私の現実の中で働くイエスを通してです。自分の思いによってではなく、神のご計画によって…。神の祝福と助けの中で、あるがままの私を通して…、様々な人間の弱さ、欠点があるにもかかわらず、神の救いの計画はこれからも前進していきます。いよいよ、来週は教会の誕生日である「聖霊降臨」をお祝い致します。