ヨハネ13章冒頭には、最後の晩餐において弟子たちの足を洗うイエスの姿が語られています。何が起こったのか理解できないでいる弟子たちに、イエスは、「あなた方も互いに足を洗い合いなさい」と言われます。その直後、イエスご自身も心を騒がせながら「あなた方のうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」(21節)と言われました。ヨハネはその時の状況を次の言葉で結んでいます。「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。時は夜であった。」(30節)そして、今日の福音の箇所に続きます。
「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた』」。ここから十字架への道が始まります。そこには何の輝きもありません。ここで言われる「栄光」という言葉には、どんな意味があるのでしょうか。イエスの語る栄光は、「今」という時と深い関わりがあります。ユダが一片のパンを握りしめて、夜の闇の中に消えて行った時、この時が、イエスの十字架が始まる「今」なのです。イエスの語る「今」は、私たちの救いにとって最重要となる「今」、全人類の過去と未来を結びつける「今」となります。まさにミサは、二千年前の出来事(最後の晩餐)を今の私たちに伝えています。「わたしを記念するために、このように行いなさい」というイエスの言葉によって、初代教会から現代まで引き継がれてきました。(Iコリ11:23~参照)そこで記念されていることは、単に過去の事ではなく、各時代の人々にとって、今の現実として受け止められるべきものなのです。ミサにおいて私たちは、時と空間を超えて二千年前の最後の晩餐と十字架の救いの出来事に、今、直接的に与っているのです。つまり、過去の歴史において、たった一回だけ行われた重要な出来事が、秘跡を通して今の私たちの出来事になるのです。
過去の出来事だけではありません。将来、私たちに約束されている救いの完成についても同じです。イエスが「最後の晩餐」で語られた「今」は、過去の出来事と、未来における神の救いの約束、そしてその完成を結びつける重要な「今」なのです。
聖書は、復活の体が、「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない体」(エフェ5:27)であると語っています。しかし、復活されたイエスは、弟子たちの前に手と脇腹の傷を持って現れました。(ヨハ20:20)十字架の傷が刻まれた復活のイエスの体には、過去と未来そして現在が見事に結びついています。このキリストに結ばれて生きる私たちは、キリスト以前の人間が誰も体験したことのない、「新しい信仰を生きる者」とされているのです。
イエスが、父のもとへ帰られた後も弟子たちは世に残ります。私たちも同じです。イエス不在の中で「復活への信仰」を生きなければなりません。しかし、どのようにして……。その答えが今日の福音の中にあるのです。
「わたしは新しい掟をあなた方に与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方がわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
互いに愛し合うなら、そこに十字架のキリスト、そして復活のキリストとの「生きた交わり」が生まれるということです。だから「新しい掟」なのです。さらに、イエスは言われました。「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」と。私たちはここで、イエスの言われる “新しい愛のあり方と生き方“ を学んでいます。イエスが弟子たちに求めた愛は「わたしがあなた方を愛したように…」ということでした。神が御子イエス・キリストにおいて私たちを愛されたあの愛を通してです。イエスは自分を裏切るユダの足も洗いました。イエスの愛に限界はありません。主の食卓には、敵をも含めた全ての人が招かれています。イエスと食卓を共にする共同体、それが主の教会です。イエスが開いたこの新しい世界に、イエスと共に入るよう私たちは招かれています。そのような愛は、それまでの人間世界にはありませんでした。私たちが、頑張って、立派になって……ではありません。私たちの内に働くイエスご自身の愛を頂くことによって、その力を通して それは初めて可能となるのです。かつてイザヤは言いました。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」(イザ2:4~5)旧約のこの預言が、今やイエスを通して現実のものとなります。平和への道は、いつの時代でも厳しいものです。それでも私たちは、その中で 「主の死」 を告げ知らせることができます。
私たちに不可能なことをイエスは要求しません。弟子たちと分かれる前にイエスが残した最後の言葉、「互いに愛し合いなさい。」というイエスの遺言によって、私たちにはイエスの心を生きる恵みが与えられています。私たちは、教会の交わりの中で、ミサに与りながら、救い主イエスの心を証しする力を恵みとして頂きます。「わたしは必ず、あなた方と共にいる…」。イエスのこの約束を信じながら……。それが私たちに与えられた信仰です。目的は、私たちの満足ではありません。私たちの計画でもありません。主のみこころと導きがどこにあるかということが大切です。誤解、躓き、裏切り、その結果としての十字架。しかしそこで示された神のゆるしと憐れみ、復活の命への招き、そして聖霊降臨の恵み……。これら一つ一つを弟子たちは、自分たちの体験として深く心に刻み付けました。
聖霊の風は真理の風、その炎は愛の炎です。地上の困難な現実にも関わらず、主の風は吹き続け、炎は燃え続け、多くの人々に今も働きかけています。「主はアブラハムに言われた。『あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい』」(創12:1)。私たちは、現状に留まることなく イエスと共に次の段階に進むよう導かれているのです。