本日の福音の直前に、「主よ、わたしたちにはご自分を現わそうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」という弟子の質問があります。これに対するイエスの答えが今日の23節以下のみことばです。

 山上の説教においてイエスは、「平和を実現する人々は幸い。」(マタイ5・9参照)と言われました。「今、平穏無事に生きているあなたは幸い」ということではありませんでした。イエスと共に、平和を造り出す人が幸いなのです。イエスが与える平和をイエスと共に造り出す生き方…、それが福音を生きる事だとおっしゃったのです。

 私たちの人生には、「神がおられるなら、どうしてこのような事が…」と思いたくなるような事がたくさんあります。そのような人に向かってイエスは語ります。「その苦しみは、神の業があなたを通して現れるためである」(ヨハネ9・3参照)と。それは決して、神がご自分の業を現わすために人間の不幸を必要としているという意味ではありません。

 私たちが今 置かれている場で、思いがけない悲しみや困難を避けて通る事はできません。しかし、そこでも神が働いておられる事に気付くのは重要です。どんな状況においても、神の愛の中で見守られ、導かれていることを忘れないなら、そこからイエスの言われる「神の業」が見えてくるのではないでしょうか。

 いよいよ、イエスと別れることになる弟子たち。イエスの名のゆえに死をも覚悟していたはずの弟子たち。彼らは、「最後の晩餐」に与かっています。イエスはそこで弟子たちに言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」

 仕事、家族、故郷など、すべてを捨ててイエスに従ってきた弟子たちでした。イエスが嘲られ殺される事など想像もしていなかったでしょう。そうなる理由も分からなかったでしょう。弟子たちがこれから向かって行く先は、嵐が吹き荒れる世界です。そのような弟子たちに、イエスの言葉が響き渡ります。

「わたしは去っていくが、また あなたがたのところへ戻って来る。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。… 父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。心を騒がせるな。おびえるな。」

 イエスが約束された平和は、イエスのみが与える事のできる賜物としての平和です。今まで誰も見たことも聞いたこともない平和です。イエスによって初めて与えられるこの平和を、これからもイエスと共に造り出す者となるよう、イエスは弟子たちに望んでおられるのです。「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」…。イエスは十字架の死を意識しながら語っています。しかし、イエスは分っています。たとえイエスを殺しても、神の救いの計画を潰すことはできないということを。人間のあらゆる抵抗にもかかわらず、神の計画は進展していきます。イエスは、これまで弟子たちと共に歩んできました。だからこそ、ここまでやってこれたのです。イエス亡き後、彼らが信仰を失わずに歩んで行くためにどうすればよいか…。それをイエスは考えておられます。これから弟子たちは、イエスの姿を今までのように見ることはできなくなります。これから訪れるイエスの十字架と復活による救いをどう受け止めたら良いのか、そのヒントを教えておられるのです。

 「心を騒がせるな。おびえるな」と言われても、この世の現実は私たちを怯えさせます。信仰の世界においても同じです。イエスがここで語っているのは、終わりの日の話しではありません。日常生活の中で、今も私たちと共におられるイエスの話しです。復活されたイエスが私たちのために約束された父と子の愛の霊。イエスの名によって与えられる聖霊が、私たちに全てのことを教え、イエスの言葉を思い起こさせてくれる、という約束です。聖霊は、イエスによって成し遂げられた十字架と復活の意味を理解させ、イエスと共に生きる力を与えてくれます。聖霊の助けなしには、神の愛を知ることも信仰を生きることもできません。これは、イエスが父のもとに行かれることによって実現する恵みです。だからあなた方は、「わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ」とイエスは語っているのです。

 考えてみてください。私たちが今、教会に導かれ繋がっていること自体、聖霊のみ業です。聖霊は、私たち一人ひとりをキリストにおける一つの体(教会)として守り導いています。それは、将来完成される救いの喜びの先取りでもあります。世が与える平和は、置かれた環境によって左右されます。しかし、イエスが約束しておられる平和は、この世の直中にあって流されることのないものです。それは、地上の嵐にも耐える力を持っています。神は、全てをご存じです。「どんな時にも あなたを決して見離さない」と言う神の約束を思い起こしましょう。

 み言葉であるイエスが、地上において語るべき時は終わりました。やがて、弟子たちは様々な不安に襲われます。だから、イエスは彼らに向かって「わたしの平和をあなたがたに与える」と約束されたのです。不安にならざるを得ないこの世において、崩されることのない本当の平和の約束です。イエスは、十字架の向こうにあるものを見ながら語っておられます。御父は、イエス亡き後の私たちのために「助け主である聖霊」を遣わすと約束しているのです。前教皇ベネディクト16世の講話に耳を傾けましょう。

 「主よ、わたしたちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」。これは現代でも重要な意味をもつ問いかけです。わたしたちも主にこう問いかけます。「復活した主が、ご自分が勝利を収めた神であることを示すために、ご自分の敵に対して、そのすべての栄光をもってご自分を現さないのは、なぜでしょうか。なぜ神は弟子たちだけにご自分を現すのでしょうか」。イエスの答えは、神秘的で、深い意味をもっています。

 主は言われます。「わたしを愛する人は、わたしのことばを守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14・22-23)。このことばが言おうとしているのは、次のことです。すなわち、神がわたしたちのところに一緒に住むことができるには、復活した主は、心でも、見え、また感じることができなければならないということです。主は、一つの物として現れたのではありません。主は、わたしたちの生活の中に入ろうと望んでおられます。だから、主が現れるには、開かれた心を必要とし、また前提とします。このように開かれた心があって初めて、わたしたちは復活した主を見ることができるのです。」 前教皇ベネディクト16世、一般謁見講話より。(2006年10月11日)