今日の福音の直前で、ユダヤ人たちはイエスに「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もし、あなたがメシアならはっきりそう言いなさい。」と言っています。(ヨハネ1024これに対してイエスは、「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。はっきり語られているのに信じようとしないのは、あなたがたが私の羊ではないからだとおっしゃっています。彼らが、イエスの羊ならば、その声を聞き分けるが、そうでないなら、イエスの声を聞いても聞き分けることができない、信じることもできないと語っているのです。

 イエスを信じているはずの私たちはどうでしょうか。イエスの羊と言える生き方などとてもできていない…、と思う私たちではないでしょうか。しかし、イエスの言いたいことはそういう事ではないのです。私たちは、一生懸命努力して 自分の力でイエスの羊になれるのではありません。私たちは皆、イエスの羊となるように神から招かれて今があるのです。イエスは、一人ひとりの個性や長所だけでなく弱点をも知っておられます。その上で私たちを招いておられるのです。そして、迷い出た羊を探しに来て下さるのです。このように、羊飼いであるイエスが私たち一人ひとりの名を呼んで心に留めておられる、それゆえに、私たちはその声を聞き分けることができるのです。

 ユダヤ人たちの思いは、「あなたがメシアであるなら、我々が納得できるように示しなさい。納得できたら信じてあげよう」と語っているところにありました。それに対してイエスは、私がメシアであることは、私の羊とならなければ分からないことだ、と語っておられるのです。理解し、納得できたら信じてあげる、というのは信仰ではありません。結局、そこでは自分に都合よく理解しようとする思いが中心となりますから、どんな言葉を聞いても目が開かれることは難しいのです。それでは、イエスの羊になるとはどういうことでしょうか。

 私がイエスを知る前に、イエスが私を知っておられたことに気付く事は大変重要です。生まれたばかりの子供と同じように、イエスが私の名を呼び、導いて下さっているからこそ、私たちは何も分らなくても声の聞こえる方向に向かって歩むのです。「わたしは彼らに永遠の命を与える。」… この約束があるから、たとえ 死の陰の谷を歩むことがあろうとも、恐れずに前進することができる、そこに神との出会いの秘密、信仰の秘密があるのです。

「わたしの父がわたしにくださったもの…」とイエスは語っています。イエスにとって私たちは、父なる神から与えられた宝物なのです。何という恵みでしょうか。もともと私たちは父なる神のものなのです。父なる神が、ご自分のものである私たちをイエスに与え、イエスも御父の宝物である私たちをご自分の羊として下さったのです。父なる神とイエスの宝物である私たちを奪うことのできる者は誰もいない、とイエスは語ります。父なる神とイエス、そして聖霊が一つとなって、私たちを守って下さる現実の中に私たちは置かれています。父と子と聖霊の愛の交わりから私たちを引き離すものは何もない、と神ご自身が宣言しておられます。

 十字架につけられたイエスは、人の目には無力に見えます。しかし、そうではありません。イエスは、十字架から逃れようと思えばいくらでも逃れることができました。しかし、イエスは愛ゆえに最後まで十字架に留まりました。ただ十字架にかけられればよいのではありません。イエスの降誕から十字架に辿り着くまでの歩みも重要です。「父よ。わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)」と言って息を引き取られるまでのイエスの全生涯を通して、三位一体の神の大きな愛を学んでいるのです。

 「主よ、わたしたちの主よ。人とは、何者なのでしょう。

あなたがこれを心に留められるとは。

人の子とは、何者なのでしょう。

あなたがこれを顧みられるとは…。」(詩編8章参照)

  思い悩む時、十字架を思い起こしましょう。神は十字架において一人ひとりが全宇宙よりも価値ある事を教えてくれました。様々な困難のため倒れそうな時、主の復活を思い起こしましょう。復活は、イエスが紛れもなく神の御子であることを示しています。そのような時こそ、イエスの声を聞き分ける時です。イエスの声を聞く者は、いつもイエスのそばにいます。その絆は強いものです。私たちの人生は、イエスと共に御父のみ手の中の人生であるとパウロは語りました。

「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力ある者も、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ83839

 イエスに聞き従う生き方は、神の恵みから来る新しい生き方です。弟子たちと別れる際に語られたイエスの言葉を振り返りましょう。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かな実を結ぶ。・・・あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るように、…わたしがあなたがたを任命した。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ 155節以下参照)