年間第三主日は教皇フランシスコによって「神のことばの主日」と宣言されています。またこの日は、キリスト教一致祈禱週間(18日~25日)とも重なり、キリスト者の一致のためにも祈るように促されています。同じ神の言葉に生かされる者として、全教会の一致のためにも祈りましょう。

 さて、今日のルカ福音4章の初めの部分で省かれている箇所(1節~13節)があります。それは、イエスが四十日間 悪魔から誘惑を受けられた場面です。神の御子イエスが、なぜそのような体験をする必要があったのか…、私たちには謎です。今日の福音箇所と合わせて その意味を考えるのも興味深いことだと思います。

私たちには、信仰の試練があります。しかし、それは信仰が弱いからではありません。神から愛されていないからでもありません。むしろ神の子として愛されているがゆえに、イエスが体験されたと同じように 私たちにも様々な試練が恵みとして与えられるのです。

 荒れ野におけるイエスの試練が終わろうとしている時…。そこで悪魔は、災いや苦しみを持ってきたわけではありません。むしろ親切なアドバイスをもってやってくるのです。「あなたが神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(3節)。それは、飢えや貧困の問題を解決しようとする素晴らしいアイデアに思えます。

 石をパンに変える という誘惑、それは神の子イエスに特有なものです。私たちには初めからあり得ないことだからです。このように、神に反するものからの誘惑は私たちの弱さについてではなく、強さについて起ります。元々持っていないものについては初めから誘惑にさえなりません。持っているものについて受けるのです。「なぜ、あなたが持っているその特権を用いないのか」と悪魔はイエスに問うているのです。それがまさに誘惑です。「悪いことのために用いなさい」とか、「あなたの立場を利用して横領しなさい」などと言われるなら、すぐに分かるでしょう。しかし、そうは言わないのです。「この石にパンになるように命じなさい」と言っています。そうすればイエス自身の飢えを満たすだけでなく、多くの人の飢えを満たすこともできる、それは善いことではないか、と語っているのです。極めて理に適ったアドバイスなのです。

 これに対してイエスは「人はパンだけで生きるのではない」と答えています。貧しい者として生きられたイエスは、飢えることの痛み悲しみを知った上で語っています。人間にとってパンは必要なものです。だから五千人にのぼる大群衆にパンを与えました。(ルカ9・14参照)そのイエスが、こう語っているのは、悪魔の企てを知っているからです。私たちに必要なものは何でしょうか。そのヒントが、イエスが引用する申命記の言葉にあります。

「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8:3)。

 イエスが語っているのは、昔 荒れ野で飢えていたイスラエルの人々の体験です。その時、神は「マナ」という食べ物を与えました。それは、単に飢えを満たすためだけではなく、彼らを神の言葉に信頼して生きる者に成長させるためでした。目の前の必要を無視して人間は生きることができません。しかし、目の前の事か考えられなくなったら、御利益信仰に陥る危険もあるのです。

 そして、今日の福音箇所である414節以下に続きます。そこで語られることをルカは、「わたしたちの間で実現したこと」と言っています。人間が計画した話しではないのです。それは、人間の計画や思いではなく、神のみ心であり 神のご計画なのです。神の国は、人間が頑張って作り出せる世界ではなく、神ご自身によってしか与えることの出来ない恵みの出来事なのです。それを分って欲しいというのがルカの熱い願いです。

 ですから、「わたしたちの間で…」という言葉は重要です。この福音を読む全ての人々の間で、神の救いは人の思いを超えた出来事として実現します。それが、イエスとの出会いであり、救いの出来事なのです。福音のことばに命があるのは、過去のある一点だけで終わってしまう話しではなく、今を生きる私たちにとっても 力ある神のことば、神の愛に触れる体験となるものだからです。

イエスが神殿において朗読した神の言葉は、 「あなた方が耳にしたとき実現した」と語っています。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。(イザヤ61章)

 イエスによって実現した福音がここで語られています。それは、倫理、道徳の教えではありません。捕らわれ人に解放が、目の見えない人に視力の回復が、圧迫されている人に自由が与えられる恵みの言葉なのです。キリスト者の歩みとは、その自由を生きるための歩みです。それは決して簡単なことではありません。現に神の恵みの言葉を聞いているはずの私たちは未だに、様々な力や思いに振り回されて生きています。むしろ道徳律や戒律に従って生きる方が楽なのかもしれません。けれどもイエスは、本当の自由が何であるかを考えていきるよう私たちを促します。

 私たちが生きている世界は、いつでも予期せぬ出来事に巻き込まれやすい世界です。しかし、そのような私たちのもとに主が来られ、共に歩む主のことばが告げ知らされています。様々な不安の中にありながらも、主と共に踏み出す 新たな一歩がそこから始まるのです。神のことばそのものであるイエスを聖体の秘跡の中に見る事が出来ますように…。