異邦人の地と呼ばれたガリラヤにおいてイエスは宣教を開始されます。湖のほとりを歩いておられるイエスが、弟子たちを呼び集められる姿を思い起こしましょう。イエスによる宣教の開始は、第一朗読で読まれたイザヤ書の(イザヤ9・1参照)の成就でもあります。

光そのものである方の光が、「死の影の地に住む者の上に輝いた」のです。暗闇を照らす光…。その光は命の光、愛の光として地上を照らします。イエスはまさに、闇が深まった地上における光そのものです。その光が、異邦人の地ガリラヤから昇ったのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」…この言葉と共にイエスの活動が始まります。

 悔い改めるとは、「心の向きを変える」、「方向転換をする」ことです。私たちの心は今どこに向いているでしょうか。自分の欲望、自分の願い…、いつでも人間の思いは自分に向かっています。そこから方向を転換して、神の思い、神の願いに心を向けて欲しいというのがイエスの望みです。

 ガリラヤ湖畔でイエスは、最初の弟子となる四人を招かれます。ペトロとその兄弟アンデレ、そしてヤコブとその兄弟ヨハネ…、彼らは漁師でした。弟子たちにとってイエスとの出会いは、その後の人生を決定的に変える出来事となります。想像もしていなかった方向へと彼らを導くことになります。しかし、この時点の彼らは何も分っていません。

「わたしについてきなさい。あなたがたを人間をとる漁師にしよう。」このイエスの呼びかけに応えて、弟子たちはすぐに網を捨てて従って行きます。一介の漁師に過ぎなかった彼らを、イエスはご自分の弟子として招かれました。この四人の弟子たち、すなわちペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは、後に十二使徒の中でも特別に重要な存在となります。この何気ない出来事の中に、「神の知恵」があったことを彼らは後から知ることになります。知識人であろうと、教養人であろうと、またあらゆる知識に精通している人であろうと、イエスの弟子となるために必要な条件は、この世の知恵ではないのです。それが、何であるかを後から理解するようになります。漁師であった彼らが漁を辞めた途端、様々な犠牲が彼らを襲います。にもかかわらず、最後までイエスに従って行く事ができたのはなぜでしょうか。何も分らなかった彼らは、イエスと行動を共にする中で徐々に、最も大切なことが何であるかを知る者へと変えられて行ったのです。

当時、真珠は最も高価なものでした。全財産を投げ打っても買うだけの価値がありました。弟子たちは、イエスと出会ったことに、真珠に勝る大きな喜びと価値を見出しているのです。(畑に隠された宝 マタイ13章44以下参照)

ローマ帝国に支配されていた当時のユダヤ人たちにとって神の国とは、イスラエル王国を築いてくれる政治的王国の意味で受け止められていたようです。しかし、イエスは言います。「神の国は、見える形では来ない。実にあなたがたの間にある」(ルカ17・20,21参)と。どのような経緯であれ、私たちがイエスに出会ったその時から、神の国はその人のうちで動き始めます。イエスと出会い、イエスを宿す人の心に神の国があると言って良いでしょう。そこで大切なものはキリストご自身です。主・キリストなしに何も成り立ちません。私たちの最終的目的は、この方に向かっています。イエスと共に、イエスの中にある神の国を築くことです。決して、私たちが考える神の国ではありません。

ユダヤ人たちにとって神の国は、旧約で預言されているメシヤが出現して初めて訪れるものと期待されていました。シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネたちは、まだ十分ではないにしても、イエスが聖書で預言された救い主であること信じ受け入れていました。ですから、彼らは網を捨てすぐにイエスに従うことができたのです。何も分っていない弟子たちであっても、イエスと共にいることによって、そこから多くのことを学び 彼らは大きく変わっていきます。何より大切な事はイエスと共にいたいと望むことです。

イエスの働きは、今日の福音にあるとおり、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされました。このようにして、イエスの働きはパレスチナ内外の全土にまで広まって行ったのです。イエスによる神のみ業は、神の国到来のしるしであり、神の愛の現実を物語っています。このいやしのみ業は単なる奇跡ではありません。神は人間の魂の問題にだけ関心があるのではなく、心と身体を含めた人間全体の救いを願っておられるのです。

イエスのもとには、イエスの神的力と共に、その愛に引き寄せられた人々が集まります。人々から嫌われている者、汚れた者として遠ざけられていた人たち誰もが、安心して近づくことができました。イエスは、人々を無用に裁く事はなさいません。サマリヤ人でも、ガリラヤ人でも、異邦人でも、姦淫の女でも、皆わけへだてなく受け入れています。そして、最終的には私たちのために十字架への道を引き受けて下さいました。このイエスの愛こそが私たちの命、喜び、希望です。この方が、「わたしについてきなさい」と招いておられるのです。イエス・キリストがまことの神であり、救い主であり、愛とあわれみに満ちた方、永遠のいのちを与え、御国に招き入れてくださる方であることを思う時、「わたしについてきなさい」という招きのことばを真剣に受け止めないわけには行かないのです。

ガリラヤ湖畔で弟子たちに、「あなたがたを 人間をとる漁師にしてあげよう」といわれるイエスのことばには大きな意味があります。この私たちを、ご自分の弟子として招いておられるということです。まだ、イエスの愛を知らない人々がまわりにはたくさんいます。それぞれが置かれた状況の中で私たちはこの方と出会い、交わりを深めるよう招かれているのです。「わたしについて来なさい」(マタイ4・19)。この招きのことばが、歴史の中でどれ程多くの人々を導いてきたことでしょう。同じ招きのことばが、私たちの心の耳にも届いているでしょうか。