「冬至」を境に、一日一日、日が伸びることから、この日は「太陽の誕生日」と言われていました。イエスの誕生がいつであったかはであったかは聖書に書かれていませんので分りませんが、現在のように12月25日に祝われるようになったのは、光そのものとして世に来られたイエスの誕生と冬至が結びつけられた結果です。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」この「おめでとう」という言葉は「喜びなさい!」の意味です。「主があなたと共におられる。だから喜びなさい。」という意味です。当然、マリアは戸惑いながら、この挨拶は何のことかと考え込んでいます。戸惑っているだけでなく、不安や恐れをもマリアは感じているのです。ザカリアも体験したあの恐れ、生ける神に直面したとき人間が感じるあの恐れです。天使は、ザカリアの時と同じように「恐れることはない」と語りかけ、神がマリアに望んでおられる計画を伝えようとしています。神の側から「恐れることはない」と告げられなければ、私たちはその前に立つことはできません。それはマリアも同じです。

 マリアから生まれる幼子は、「いと高き方の子」と呼ばれます。彼こそ、旧約時代から約束された救い主なのです。ここで言われているヤコブの家とは「教会」のことです。イエスは新しい神の民である教会を導き、私たちに神の命を与えようとしておられるのです。

「どうして、このわたしに、そのようなことがありえましょうか」。ヨセフと一緒になる前のマリアが驚くのも当然でしょう。それに対して天使がマリアに語った言葉は、ザカリア時とは少し違います。神のみ言葉を信じなかったザカリアには、時が来るまで口が利けなくなる、という試練が与えられました。しかしこれは、決して罰ではありません。マリアに対して神の使いは、この事の意味を説明しています。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類エリサベトも、年を取って不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている」。

エリサベトの身に起った出来事は、神の力の目に見える印です。それは、マリアが神の言葉を信じ受け入れるための助けとなりました。そして最後に語られた言葉は、「神にできないことは何一つない」という言葉でした。神の言葉に実現できない言葉はない。必ず実現する、と天使は語っているのです。この天使の言葉を受けてマリアは、「その神のお言葉が、この身に実現しますように…」と答えているのです。マリアがここで信じ受け入れたことは何だったのでしょうか。それは、神が自分に語られた言葉、神の御旨は必ず実現するということです。それは、頭で考えて理解するものではありません。神の恵みのみ業が、今の現実の中で確実に進行していることを知ることによって、初めて知ることの出来る恵みなのです。

 神がマリアに語った言葉とは、単に身籠もって男の子を生む、というだけのことではありません。彼女が生むその子が救い主となり、救いにあずかる人々をとこしえに導く…、ということです。そのためにマリアは、神から特別な恵みと使命を受けているのです。それをマリアは、「主があなたと共におられる」と語った言葉を信じて、そこに身を委ねたのです。それが、「わたしは主のはしため。お言葉どおり、この身に成りますように」というマリアの言葉の意味です。

 「わたしは主のはしため」……。それは、無理やりに服従させられた、ということではありません。「わたしは主のはしためとして生きます!」という叫びの声です。その道をマリアは自分から選び取ったのです。マリアにとって、主のはしためとなるとは、「お言葉どおり、この身に成りますように」と祈りつつ生きることでした。神が共にいて下さり、恵みを与え、世に救い主を生み出す母としての役割を支えて下さる、という約束です。ですから、それら全てのことを通して喜びなさい!」と天使はマリアに語っているのです。その恵みの言葉に協力すること、それが「主のはしため」として生きる自分の使命であるとマリアは理解しているのです。

 「喜びなさい!」……、この言葉がマリアに告げられた時のマリアの心の中には何があったでしょうか。喜びどころか、大変な苦しみしかなかったはずです。それにもかかわらずマリアは、神の言葉を受け入れ、それに従う道を選びました。もし、マリアがこの時、この世の現実や人間の常識などをもとにあれこれと考えていたなら…。今頃、私たちはどうなっていたことでしょう。信仰をもって生きるとは、マリアのように、不安の中にありながら、「あなたのみこころがおこなわれますように」と祈る者となることです。神の約束を信じて、それに協力する者とならせて下さいと祈り求めていくことです。ここで注目したいことがあります。それは、苦しみの道であることを知りながら、それを選び取るマリアの姿の中に、悲壮感は全くないということです。むしろそこには、不思議な落ち着きと神に身を委ねる安心があります。私たちに足りないものはこの神への信頼ではないでしょうか。将来の事は何も分らない私たち。その中で、目に見えない神の心を生きるなどという大胆なことがどうして人間に出来るでしょう。それは、神が共にいて下さるからです。その神の助け、導きがあって初めて私たちは様々な弱さと限界の中にありながら、神のみ業のために用いられていくのです。それを、神はご自分の全能の力によって、限界ある私たちの中で実現されます。「神にできないことは何もない」。その保証と根拠をイエスは、十字架の死と復活おいて示して下さいました。今の私たちにも与えられている恵みです。