ユダヤ人たちから遣わされた祭司やレビ人たちは、洗礼者ヨハネに「あなたはどなたですか」と尋ねています。彼は人々に罪の悔い改めを求めて、イエスが現われる前にヨハネが授けていた洗礼、それは今の私たちが受けている「イエスの名による洗礼」とは違いますが、神に立ち帰ることの印としての洗礼でした。

エルサレムから来た人々はヨハネに、「なぜ、あなたがそんなことをしているのか?」と聞いているのです。この問いに対してヨハネは「わたしはメシアではない」と断言しています。メシアとは「神が約束した救い主」という意味です。「私は救い主ではない」と語ったヨハネの言葉を受けて人々は、「それでは何のなか。あなたはエリヤなのか?」と聞きます。救い主の先駆けとしてもう一度現れる、と約束されているあのエリヤのつもりなのか、と聞いているのです。これに対してもヨハネは「違う」と答えています。なお詰め寄る人々に対してヨハネは、イザヤの言葉を用いながら、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」(イザヤ40・3参照)と答えています。ヨハネは、「荒れ野で叫ぶ声」となる自分の使命を自覚ながら、その使命を生きる覚悟をもって語っているのです。

 ヨハネはこの救い主キリストの道を準備するという使命を、殉教の死に至るまで果たし抜きました。しかも、「わたしは、あなたが語っているような者ではない……」ということを伝えることによって、イエスを指し示したのです。自分の後から来られる方を見なさい。その方こそ、救いをもたらすメシアであると語りました。自分は荒れ野において、「主の道を調え、その道を調え準備する者」であることに徹し、まもなく到来するその方にあなたの心を向けなさい、とヨハネは語っているのです。「なぜ、あなたが洗礼を授けるのか」という質問に対して彼は、「わたしは水で洗礼を授けているが、その方は聖霊によって洗礼を授ける方である」と答えています。それは、悔い改めの印としての洗礼です。

「あなた方の中に、あなた方の知らない人がおられる。」そうです。主はすでに、私たちの中に来ておられます。ヨハネの役割をする人がいてくれなければ、私たちにはそれが分りません。彼の指はその方を指し示しているのです。彼の証しは、私たちとイエスとの関係を教えてくれるものです。イエスと出会った自分の体験を、自分の現実をその存在を通して証しすること……。それが私たちの使命です。ヨハネは、このイエスとの出会いなしに、自分の体験を語ることなど出来ない事を知っていました。ですから、これは洗礼者ヨハネの信仰告白でもあるのです。「自分は救い主などではない」と語るヨハネの存在はいつも、後から来られるイエスに向けられています。その方は、今どこにおられるのでしょうか。

ユダヤ教の一派と思われていたキリスト者たちの信仰が広まるにつれ、ユダヤ教当局から迫害されるようになっていた時代にこの福音書は書かれています。当時、キリスト者は、ユダヤ人たちの会堂から排斥され、追放される運命にありました。その迫害の根本は、イエスがメシア、すなわちキリスト、神から遣わされた救い主であると信じる信仰ゆえに起こった事です。そのように告白する者は会堂から追放する、というユダヤ教側の意志が明確になっていたのです。ユダヤ人たちをそのように指導していたのがファリサイ派の人々です。ヨハネ福音書は、このイエスを信じる人々をユダヤ人指導者たちがこぞって迫害していた、という事実を語っています。洗礼者ヨハネはそのファリサイ派の人々に対してはっきりと、イエスこそ救い主であると宣言しているのです。イエス・キリストを信じるとは、他の誰でもないこのイエスこそ救い主であるという信仰を生きることです。それは、ただ信じればよいのではなく、イエスとの出会い交わりなくしてはあり得ない事です。洗礼者ヨハネを通して私たちが受け止めるべき大切なメッセージもここにあります。

「あなたは何者か」という問いに対して、「私は救い主ではない、私は救い主を指し示す存在に過ぎない。」と答えたヨハネ。当時、履物のひもを解くことは奴隷の仕事でした。ヨハネはここで、自分はイエスを前にして、いかに貧しく小さい者であるかを語っているのです。このように語ることによって、イエスが何者であるかを示しました。それは、自分には何の力もないという消極的な意味ではありません。たとえ、人々に批判されようとも、最後は首を切られ打ち捨てられるという残酷な死が待ち受けていようとも、彼は救い主の到来の喜びと恵みを語り続けました。しかも、他の弟子たちのように主イエスと生活を共にした事もない中で、彼はイエスを証ししているのです。彼のこの信仰とは一体何なのでしょうか。ヨハネのこの姿の中に、私たちキリスト者の姿が映し出されています。自分は何のために、どこに向って生きているのか、そのことを自覚して神と共に生きるとき、私たちにも同じ恵みが与えられます。イエスは、私たちの全ての思いを受け止めながら十字架に向って歩み、私たちが永遠の命に生きる者とされるための道を切り拓いて下さいました。このイエスの下で、イエスと共に生きることのできる恵みを忘れてはいけません。私たちも洗礼者ヨハネと共に、喜びをもってイエスを指し示す存在となることが神の望みです。それは、小さな者にこそ与えられる大きな恵みです。その人の存在の中で、言葉以上の沈黙をとおして、誰も気付かない中で静かになされる「神のみ業」です。

今日12月17日から教会の典礼は、救い主の降誕を間近に控える特別な一週間が始まります。二千年前、荒れ野のようなこの世の現実の中に、誰にも気付かれることなく、貧しい家畜小屋に生まれた救い主。その方が、「あなたと出会いたい」という一心で、荒れ野のような私たちの心に生まれることを望みながら……、私たちとの出会い私たち以上に… 今か今かとその時を待ち侘びているのです。近づいて来るこの神の足音が、私たちにも届いているでしょうか。 第2朗読でパウロも言っています。「いつも喜んでいなさい。全てに感謝しなさい。あなた方の中で働くこの聖霊の炎を消してはいけません。イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられる事を思い起こしなさい。」