「人々はその教えに非常に驚いた」(22節)。 安息日に会堂で語られたイエスのことばを聞いた人々は驚いています。それはイエスが「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」です。学者たちは、律法についての専門的な知識を持っていますからそれを土台として、日常生活の細かい規定まで教えていました。その学者たちの教えを聞いていた人たちにとって、イエスの教えは驚きだったのです。人々を驚かすイエスの権威とは、イエスご自身の中から出てくる神としての権威です。
「時は満ち、神の国は近づいた。だから、悔い改めて福音を信じなさい。」先週の福音で語られたイエスの言葉です。この救いをもたらす本人として語っているのです。これを聞いた人々の驚きから信仰が始まりました。学者たちの語る言葉から、このような驚きは生まれません。彼らは、知識としての倫理、道徳を教えましたが、そこに驚きは生まれなかったのです。
イエスの教えには、それまで聞いたことのない、人間の常識からは出てこない宝があります。自分の知っていることや、分かっていることを超えた新しい何かがそこにあるのです。これを聞く人々には、「悔い改めの心」がもたらされます。それまでの歩みの方向転換です。心の向きを、神に向けて歩む者となる恵みです。それは、私たちが自分で反省して、悪い所を改めるという話しではありません。神の助けと導きの中でなされる恵みです。イエスが来られたことによって始まった恵みです。「神からの、この新しい恵みにあなたはどう応えるか」、とイエスは問いかけているのです。そして、「あなたは変わることができる、新しくなることができる」、と告げているのです。それは、単なる倫理道徳の教えではありません。権威ある者として語るイエスと、それに驚く人々の姿。そこに、一人の男が叫び出します。
「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。
会堂にいた一人の男の叫びです。「お前は我々と何の関係もないだろう」と叫んでいるのです。イエスは、この悪霊に向って「黙れ、この人から出て行け」と語っています。イエスと悪との戦いはもう始まっているのです。悪霊は、誰よりも速くイエスの真実の姿を見抜いています。この悪の力は、今も私たちの中で働いているものです。私たちは、神の思いよりも人間の思いを優先する者であり、思い通りに行かなくなると敵意さえ持ってしまいます。この敵意は、互いを傷付け合う悲惨な対立、戦争へと発展していきます。国と国との争い、民族間の対立、そこにある悲惨な虐殺や迫害…等々。これが人類の歴史の現実でしょう。一人の人間としては大人しく善良な人間が、その敵意に捕えられたとき、そこに生まれる残虐な現実です。これは過去の話しではなく今のこの世の現実、そして私たちの現実です。この悪の働きを、決して侮ってはいけません。科学が進歩すればするほど、悪の力も強くなります。そこを、しっかり見極めて生きなさい、とイエスは呼びかけているのです。
イエスは、この悪の力を討ち滅ぼすことの出来る方として来られました。その支配から私たちを解放して下さる方です。イエスの戦いは、悪霊を滅ぼすための戦いでした。神としての権威を持って、イエスは今も私たちのために戦っておられるのです。
「時は満ち、神の国は近づいた」……。 この言葉は、神の力強い恵みの時が、今やあなた方のもとにきているという宣言です。イエスの存在を通して悪霊の支配する時は、もう終わりました。「安心して、わたしを信じなさい。そして、わたしについてきなさい。」というイエスの招きです。弟子たちが聞いた“イエスの教え“とは、そのようなものでした。イエスは、私たちにもこの福音を語っておられます。「かまわないでくれ、我々を滅ぼしに来たのか」と思ってしまうなら、それはイエスを悲しませることです。イエスと悪霊との戦いはこの後も続きます。私たちを護ろうとするイエスの戦いは、今も続いています。
神の御子イエスの本当の姿は、復活の姿の中にあります。父なる神がイエスを復活させ、私たちに新しい命を生きる恵みを与えて下さることによって、その光はさらに輝きます。イエスの生涯全体を「驚きをもって見つめることの出来る人」は幸いです。そこから、私たちの本当の信仰が始まるからです。それは、単なる倫理道徳の教えによってはなく、イエスの存在を通して与えられる救いの恵みです。この新しい恵みに出会う事が、私たちの信仰であることに気付かなければなりません。
「あなたと共に生きるために私は来た。何があっても、安心してついてきなさい。」いうイエスの声が、私たちにも聞こえているでしょうか。この声が聞こえている限り、私たちの限界も、罪深い現実も、全ては神の赦しと出会う恵みの体験に変わるのです。それは、神に出会った人々の証しでもあります。私たちを支える「教会の信仰」は、このようにして生まれました。そこに神の計らいと導きを信じて生きるのが、私たちの信仰です。このイエスの存在が教会の信仰の根底にあるからこそ、安心して委ねることが出来るのです。私たちも全教会の交わりの中で、この教会のために祈る者とならせて頂けますように……。