「時は満ちた……」それは、神の計画の中にある特別な時が近づいたということです。この言葉をもって、イエスは福音を語り始めました。しかし、イエスが活動を始めたその時のこの世の現実は、洗礼者ヨハネが逮捕され殺されてしまうという悲惨な時でもあったのです。そのような中で、それにもかかわらず、神の時は整えられていきます。神の計画を妨げ、妨害しようとするこの世の力がどんなに強くとも、神の救いの計画は実現していきます。これは大切なメッセージです。イエスが語る「神の国」は、遥かかなたにあるものではなく、今の私たちの目の前まで来ているものです。「悔い改めて福音を信じなさい」という語りかけは、私たちに対するイエスの期待です。

人間の根本的な弱さは、神をも隣人をも愛することができないところにあります。そのことに気付くところから悔い改めが始まります。それは、何かの思いや行いを反省して改めるということではなく、自分の思いを中心に生きる事をやめることです。本当に私たちを導いておられるのは神であることを知りなさい、ということです。そういう意味で、私たちの心の向きが大きく変わることが「悔い改め」なのです。それが、私たちに求められている事です。これなしに、イエスの語る福音を理解することは出来ません。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。福音とは、喜ばしい知らせです。それは人間が自分で作り出すものではなく、神の側から私たちにもたらされる恵みです。その恵みを喜びのうちに受け取る……、それが「福音を信じる」ということです。私たちが努力して、何かを成し遂げる事によってではなく、神が用意して下さった喜ばしい知らせを受け取ることによって始まる恵みの世界です。それが可能となるために、神は最大のことをしてくださいました。「福音を信じなさい」とは、イエスの生涯を通して与えられる新しい恵みを受け止めなさいということです。その救いの恵みは既に実現しています。その中でこそ、私たちの悔い改めは実現されます。自分の思いに閉じこもるのではなく、イエスを通して与えられる恵みを通してです。

今日の福音で、シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、兄弟たちのことが語られています。彼らを通して教会の基礎が築かれていきました。 彼らも最初は何も分っていませんでした。ここで注目しておきたいことがあります。洗礼者ヨハネのもとに来た人々とイエスの弟子となった人々との間には大きな違いがあるのです。ヨハネの弟子たちは、ヨハネの活動を知り、彼の語る言葉を聞いて自分からヨハネのもとに向いました。しかし、イエスの弟子たちは、そうではありません。イエスご自身が彼らの所に来られ、「わたしについて来なさい」と彼らに声をかけているのです。自分の思いによってではなく、イエスに招かれて弟子となっているのです。それは大きな違いです。実はここに、教会の根本的な姿もあるのです。それまでの彼らは、ガリラヤの漁師でした。網を打っていたシモンとアンデレ、舟の中で網の手入れをしていたヤコブとヨハネ。彼らは漁師として、この日も、いつもと変わらない生活をしていました。そこにイエスが来られたのです。イエスは彼らをじっと見つめ、そして「わたしについて来なさい。」と声をおかけになったのです。このイエスの招きによって、彼らの人生は大きく転換することになります。普段と同じように始まったこの日、しかし、イエスとの出会いによって、その日は彼らにとって生涯忘れられない特別な日となったのです。イエスの弟子になった人々がこの日体験したこととは何だったのでしょうか。

イエスは彼らに、「人間をとる漁師にしよう」とおっしゃいました。この言葉には、旧約聖書の背景があります。エレミヤ書16章16節の言葉です。

「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる」。

人間を釣り上げる漁師が神によって遣わされることが語られています。水の中や岩場の陰に身を隠している魚を漁師が見つけ出すように、神は私たちを見つけ出し、救い出してくださるという救いの約束です。その預言が今、イエス・キリストによって成就しているのです。「時は満ち、神の国は近づいた」というマルコの言葉は、イエスによって神の救いが実現したことを語っています。この時シモンとアンデレは、すぐに網を捨ててイエスに従っています。ヤコブとヨハネも「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して」イエスの後に従っています。この人々に共通していることは、イエスの招きを受けてすぐに従う姿です。しかも、それまでの彼らの生活を支えていた網を捨て、家族を離れて……です。それは、いろんな条件を付ける事なしで、ということです。イエスについていけばどんな報いがあるのか、という事も確認していません。全ての心配を神に委ねつつ、イエスについていったのです。イエスの弟子になるとはそういうことです。神の計らいに、自分自身を委ねるところから、今までとは違う新しい歩みが始まります。

私たちがここで見落としてはならない大切な事があります。それはこの四人にとって、イエスの後について行くということは当たり前のことだったということす。なぜなら、彼らはすでに、イエスに出会っているからです。その出会いと招きこそが、こちら側の一切の弱さや心配を乗り越えさせてくれる力です。彼らがもし、人生の導き手を捜し求めていく中でイエスを知り、これは良い教えだ、この人を自分の人生の師としようと思った程度であったなら、このように一切を捨てて、すぐに従って行く事などできなかったでしょう。そこにあるのは、それまでの人間の歩みの延長線上にある変革や改善でしかないのです。福音に出会うとは、イエスご自身が予期せぬ仕方で、私たちのもとに訪れて下さることによって起る変革です。そのイエスのまなざしに触れ、招きのみ言葉を聞いた者にとっては、人間の側の様々な制約など問題ではありません。私たちはどうしても、いろいろな人間的条件を考えようとします。それはそれで大事なことではありますが、人生において、人間の側で整えることのできる条件というのはそんなに多くはないのです。明日何が起るか、私たちには分りません。どんなに条件を整えても、それによって明日の歩みが保証されることはないのです。本当の確かな歩みは、私たちの側の条件を整えたり、確認することによってではなく、私たちを導いておられるイエス・キリストの十字架と復活によって実現される救いの中にこそあるのです。それによって私たちも、神の恵みに信頼し委ねて生きることができるのです。