地上において私たちは、不条理なことをたくさん経験します。その現実をどう受け止めるかによって、その人の生き方も変わってきます。イスラエルの民も同じでした。人間の叫びに対する神の沈黙をどう受け止めるか。長い時間をかけて彼らはそれを学びました。そこから、イスラエルの民の信仰が始まりました。その中で彼らが見出したことは、神の沈黙こそは、神の現存のしるしであるという事です。そのイスラエルの歴史の中で、マタイは「インマヌエルの神」すなわち、「神は我々と共におられる」(1・23)という事を強調します。大切な事は、「我と共に」ではなく「我々と共に」ということです。どのようにして、神が共におられるのかを教えてくれるのがイエスの生涯だったのです。
イエスは生まれた時から命を狙われています。そして、この幼子が最後に受けるべきものは十字架でした。聖書の語る救い主の姿は無力です。しかし、そこにある本当の救いを見出したなら、これ程力強いものは他にありません。表面ではなく、その奥にある神の叫びに気付きなさいという事です。イエスの最後の言葉は、「全世界に行き、福音を宣べ伝えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」でした(マタイ28章参照)。お気づきでしょうか。ここでも、あの「共におられる神、インマヌエル」の姿が語られているのです。マタイは、福音書の初めと終わりをこの言葉で結んでいます。「我々と共におられる神」…。これこそ、マタイがどうしても伝えたかったメッセージです。
しかし、神が共におられるということは、私たちにとって本当に喜ばしいことでしょうか。確かに、イエスの生涯を知っている私たちにとってはもちろん喜びです。聖書が語るその意味を知った上で喜べるなら、その人は本当の意味で幸いな者です。「神が共におられる」という事実が、その人にとって本当の救いになるかどうか。それは、このメッセージを受け留める私たち一人ひとりの問題なのです。
主の天使は、イエスが生まれる前にヨゼフに語っています。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)。
「イエス」それは、ヘブライ語で「ヨシュア」と呼ばれる名前です。「主は救い」という意味です。いつの時代でも人間は、大なり小なり苦しみの中にあります。そこからの救いを求めているのです。しかし、本当の意味での苦しみは何でしょうか。それは、神を知らないことです。何が救いなのかを知っていなければ、救いに飢え乾くこともありません。渇いている人が、その渇いている事実を知らないなら、ますます泥沼にはまり込むしかないでしょう。渇いていることが悲惨なのではなくて、生ける水の泉を知らないことが悲劇なのです。逆に、神を知っている人の渇きは大きな恵みとなります。私たちに必要なのは生ける水の泉である神ご自身に出会うことです。自分がどこにいようと、何が起ころうと、私と共に生きることを望んでおられる神、そのために死に復活してくださった神…。その神の姿を知ることが救いの始まりなのです。
ヨゼフに告げられた「その子をイエスと名付けなさい」という言葉。これは、単なる名付けの意味ではなく、その幼子がどういう使命を持っているかを示しています。幼子が、イエスと名付けられることは、罪から救う方であるからです。それは、幼子がこれから引き受けなければならない十字架への道と深い関係があります。その事を知っている私たちにとって、このような方が共におられることはもちろん救いです。しかし、イエスにとっては大きな試練です。地上の全ての痛みと苦しみ、悲しみ、そして十字架の死を引き受けることを意味します。このイエスの心に私たちが繫がって、初めて見えてくる救いの神秘があるのです。神が共にいてくださる事が救いとなるのは、私たちの側の障害を乗り越えてくださる方がいるからです。イエスの誕生によって、インマヌエルの意味が変わりました。何があろうと、私たちと共にいる事を決意された神。その神の心を知るなら、降誕祭の喜びは更に大きなものになるでしょう。
第一朗読(イザヤ書)は、ユダ王国のアハズ王に語られた言葉です。当時、ユダ王国は国家的危機に直面しており、「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺していた」時代です。その時、神が語られた言葉は、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」(イザヤ7章参照)という言葉でした。問題は私たちに何が足りないかを見極めることです。そのために大切な事は神への信頼です。何よりも先ず、神に信頼することが求められています。「しるしを求めよ」(10節)という言葉は、神が信頼すべき方であることを知り、落ち着いて行動せよ、と語っているのです。しかし、この時のアハズに、そのような信頼などありませんでした。「こんな時に、神への信頼等と言われても…」という気持ちだったでしょう。人間は、神に信頼する心をいつの間にか忘れてしまいます。そのことを思い出させながらイザヤの言葉は続きます。
「ダビデの家よ 聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7・14節参照)。
アハズにとって「インマヌエル」という言葉は、決して喜ばしい言葉ではありません。それは、彼の心を全て見通しておられる神がいるということだからです。その事を分っていないなら、あなたは最終的に不信仰の実を刈り取ることになる、という警告でもあったのです。「神が共におられる」…それは、私たちにとっても救いの言葉であると同時に、私たちが神の心を生きていないなら…。表面的な正しさなど、神の前にあっては一瞬にして吹き飛んでしまうものでしかないのです。
「私たちと共におられる神」…。降誕祭の大切なメッセージです。その神はどこにおられるのでしょうか。昔、モーセが荒れ野で神と出会った時、「あなたの名前は何というのですか」という問いに対して、「わたしは在る、わたしは在るという者だ」と答えました(出エジプト記3:14)。神は私たち一人ひとりの存在を根底から支えておられます。そのことに気付いた詩編作者は言っています。「たとえ、死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。Hあなたが共にいてくださるから」(詩編23:4)
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に光が輝いた」(イザヤ9・1)。「わたしは世の光である。わたしに従う者は闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8・12)。
「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないようにわたしは光として世に来た。」(ヨハネ12・35-36、46)。
救い主キリストがお生まれになるときが いよいよ近付いています。