今日は、待降節第3主日です。昔からこの日は、「喜びの主日」と呼ばれています。祭壇前に飾られた丸いリースを見ると、クリスマスが近付いていることを実感します。日曜日毎に、ローソクの火が一本ずつ増えていきます。四本全部に火が灯ると、間もなくクリスマスがやって来るのです。このようにして、降誕の時が向こう側から近づいてくることを実感するのです。第一朗読イザヤ35章は、「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ…」という言葉で始まります。そこで言われる喜びとはどういうものでしょうか。

主の到来を待つことは、私たちの信仰の根本です。主の降誕は、イエス・キリストの「第一の到来」でした。二千年前、それはベツレヘムの馬小屋で起ったことです。「第二の到来」… それは、主が約束された救いの完成の時です。私たちが、最終的に待つべきはこの第二の到来です。復活して天に昇られたイエスが、再び私たちのところに来て下さる、それによって私たちの救いが完成される…、その時を私たちは待ち望み、そこに向けて私たちの信仰も整えられていくのです。イザヤ35章には、救い主の到来を待ち望む人々の切実な思いが込められています。

「そのとき、見えない人の目が開き聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」(5節、6節参照)。

「そのとき」とは、荒れ地だったところに道が整えられ、敵の地に連れ去られた人々が故郷シオンに連れ戻される喜びのときのことです。その日を待ち望む人々の切実な思いです。救いの完成を待ち望む人々の思いと、今の私たちの思いがここで重なるのです。「喜び躍れ、花を咲かせよ」「大いに喜んで、声をあげよ」…。彼らの待ち望む喜びの時が伝わってきます。けれども、注意が必要です。これは彼らが今現在 体験している喜びではありません。彼らが体験していることは、「荒れ野、荒れ地、砂漠」における苦しみでしかありません。そこにあるのは、見えない、聞こえない、歩けない…などの様々な苦しみを負った人々の現実です。嘆きと悲しみが交差している現実のただ中で彼らは語っているのです。私たちも同じです。それぞれの生活において、様々な悩みや苦しみがあります。世界に目を向ければ、暗くなるようなニュースばかりです。世界中で憎み合い、殺し合いが繰り返され、多くの人々が傷つき死んでいきます。このまま、憎しみと敵対心は日毎に深められていくのでしょうか。今なお荒れ野、荒れ地、砂漠、嘆き、悲しみに支配されているこの世の現実。その中で、私たちが救い主の到来を待ち望み、その誕生を喜び祝うことに どのような意味があるというのでしょうか。

私たちは、イエスによって到来する救いへの希望において喜ぶのです。そこで、神の約束は最終的に成就します。それが確かな約束である事を神は、第一の到来によって示して下さいました。神である方が一人の幼な子として生まれ、痛む者、悲しむ者となって下さった、それゆえに、苦しみ多いこの世の只中においても 私たちは希望をもって生きることができるのです。

先週、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と呼びかける洗礼者ヨハネの言葉を聞きました。人々はこのヨハネがメシアではないかと思い、多くの人が彼について行こうとします。しかし彼は、「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が後から来られる。その方は、聖霊と火によってあなたたちに洗礼をお授けになる。わたしはその方の履物の紐を解く値打ちもない。」と言いました。洗礼者ヨハネは、「イエスこそメシアであり、救い主キリストである」と証言した最初の人です。しかしそのヨハネが、今イエスに対して「本当にあなたがキリストでしょうか」と尋ねているのです。これは一体どういうことでしょうか。何かの間違いではないでしょうか。なぜ、このような質問をしているのでしょうか。

ヨハネが牢の中で聞いたイエスのうわさは、慈しみと愛を持つ赦す神の姿でした。しかしそれは、権威ある救い主を期待していた当時の人々にとっては躓きでもあったのです。実際、正義による神の裁きを期待した人々の手によって、イエスは十字架に付けられ殺されたのです。洗礼者ヨハネが当初想像していた救い主のイメージも、実際のイエスの生き方とは大分違っていたのです。イエスの言動が、自分の考えていた救い主のイメージではなかったことにヨハネは戸惑っているのです。それで人を遣わして、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の人を待たなければなりませんか」と聞いているのです。 

これは驚きです。「イエスこそキリストである」と最初に証したヨハネ。そのヨハネが今イエスに躓きかけているのです。イエスは、ヨハネの弟子たちに語っています。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」これは、イザヤ書で預言されている救い主のしるしです。個人的な見解によって、神の計画を曲げてはならない。早まった解釈をしてはならない。最後までわたしを見なさい…、というイエスの忠告です。イエスの弟子たちも、最後はイエスを見捨てて逃げ去りました。イエスと寝食を共にした弟子たちも躓いたのです。弟子の頭ペトロに至っては、三度もイエスを「知らない」と否定しています。この現実をどう思いますか?

しかし、本当の救いはここから始まりました。十字架による救いとか、神が人となられるという信仰の核心を受け入れることは、人間の本性にとって非常に難しいことなのです。上からの助けなしに、私たちの信仰は成り立ちません。

それにしても、聖書は不思議な書物です。イエスに躓くヨハネや弟子たちの姿をこれ程はっきりと書いているのです。その中で、「わたしにつまずかない者は幸い」というイエスの言葉は私たちの胸に強く刺さります。「最後までわたしを見なさい。早まった人間の判断で神の恵みを見失ってはならない」という警告がここにあります。

喜びよりも悲しみの多い毎日…。それは昔も今も変わりはありません。荒れ野の中で、喜び踊れと語る聖書の言葉には、人間のもろさの中に差し伸べられる神の力強さが示されています。私たちは、躓き倒れる弱さの只中にありながら、そこでイエスの働きを見るのです。たとえ不完全な自分であろうとも、そこにイエスがおられるから、その不完全さの中でイエスは今も働いておられるから…。「およそ女から生まれた者のうち洗礼者ヨハネより偉大な者は現われなかった」。(マタ11・11)あのヨハネをイエスはこれ程までに賞賛しています。そして、私たちにも聞いておられます。「あなたがたは、何を見に荒れ野に行ったのか。風にそよぐ葦か」…。人間の限界の中から語りかける主の声を聞くために私たちは荒れ野に送られているのです。そこから本当の信仰が始まります。その荒れ野の中に共に留まっておられる主を見出す者であれという期待が込められているのです。