クリスマスのメッセージは、神の御子がこの世に、一人の人間としてお生まれになったということです。救い主の誕生は、全ての人々にとって大きな喜びの出来事であるはずです。その喜びの意味をあらためて考えてみたいと思います。それは、自然に湧いてくる喜びではありません。教えられなければ分からない喜びです。イエスがお生まれになった時、民全体に与えられる大きな喜びの出来事として知っていた人は一人もいませんでした。イエスはベツレヘムでお生まれになった、と福音書は語っています。ヨゼフとマリアは、ローマ皇帝アウグストゥスの命令のために、ベツレヘムへ旅をしなければならなくなったからです。その旅先でマリアは出産し、生まれた赤ん坊を飼い葉桶に寝かせます。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と書かれています。本当に場所がなかったのでしょうか? 貧しい二人のことを心にかける人は誰もいなかったという事です。もうすぐ子供が生まれるマリアを見ても、誰も気にかける人はいなかったということです。イエスは、誰にも顧みられることなくお生まれになりました。マリアとヨセフにとってそれは、大変大きな苦しみだった事でしょう。実際には、「民全体に与えられる大きな喜び…」などどこにも見られない悲惨な状況でしかなかったのです。

 このことを、大きな喜びの出来事と告げたのは主の天使でした。野宿をしながら群れの番をしていた羊飼いたちに現れて、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と語ったのです。この天使の言葉によって初めて、大きな喜びの出来事が今起っているということが告げられたのです。人間の感覚においては、喜びどころか苦しみの只中にあると思われるところで、実は大変大きな喜びの出来事が起っていたのです。これは、神から告げられなければ、人間には分る得ない喜びです。クリスマスの喜びは、神ご自身から示されて初めて分かる喜びが告げられているのです。

私たちが降誕祭で祝おうとしているのは、そういう喜びです。クリスマスを喜び祝うのは、私たちの側に喜びの理由があるからではありません。喜びの理由など どこにもない現実の中で与えられる大きな喜びです。その招きを最初に受けたのは羊飼いたちでした。彼らは、人々から差別され、蔑まれていた貧しい人々です。苦しみと悲しみをかかえて生きてきた人々です。そのような人々のところに主の天使が現れ、大きな喜びを告げたのです。それによって彼らは、クリスマスを最初に喜び祝う人となりました。クリスマスの喜びは、このように今悲しんでいる人、苦しみのただ中にある人、不安のただ中にある人々に、真っ先に与えられる 神から与えられる喜びなのです。

 主の天使が、救い主の誕生を告げた時、彼らは生まれた幼子を賛美する天使の歌声を聞いています。何という恵みでしょうか。羊飼いたちは、ただ知らせを聞いただけではありません。これによって彼らは、共に神を礼拝し賛美する者に変えられました。そして、本当の喜びを受け取り、それをまわりに告げ知らせる者へと変えられていったのです。この時、羊飼いたちが聞いた賛美の歌はミサの中でも歌われる「いと高きところには神に栄光、地には善意の人々に平和あれ」というグローリアの歌です。

 天使たちは、イエスの誕生において「神の栄光」と「地上の平和」を歌っています。それは、イエスの誕生において実現していることです。しかし、人間の感覚からすれば、どこを見回しても家畜小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かされた幼子以外何も見えません。どこに神の栄光があるのでしょうか。どこに地の平和があるのでしょうか。ヨゼフとマリアが望んでもいない旅を強いられ、旅先の家畜小屋で出産をしなければならなかった現実しかそこにはありません。この事のどこに平和があるでしょうか。しかし、神はこの天使の賛美によって、まさにこの事において、ご自身の栄光と地上の平和を告げているのです。お分かりでしょうか? それは、お生まれになったこのイエス・キリストの生涯、特にその終わりを見つめることによって理解できるものです。神は予め、それを知る恵みを彼らに、特別に与えたとしか言いようのない恵みの出来事です。

イエス・キリストは、この世の、そして私たちの不完全と罪を負って死んで下さいました。そのイエスの十字架によって、私たちの救いは実現します。イエスがこの世に生まれたのはそのためでした。そして、神はこの方を復活させられました。死の力を打ち破って、新しい命をお与えになったのです。「神の栄光」は、イエスの十字架と復活によって最終的に実現される事です。ですから、イエスの誕生は神の勝利への第一歩なのです。ゆえに天使たちは、人の目には見えないこの神の栄光をクリスマスの出来事において見ながら、賛美し歌っているのです。

 同じように「地上の平和」も、イエス・キリストの生涯を見つめることによって明らかにされる真理です。イエスは、私たちが抱いている敵意や憎しみをご自分の身に引き受け、それを乗り越えることによって赦しを与えて下さいました。だからこそ、様々な対立がある中で真の平和が実現するのです。イエスの誕生は、地上の平和への第一歩でした。それゆえに天使たちは、人の目には見出せない平和が、幼子の誕生を通して地上に既にもたらされたと歌っているのです。

 天の栄光も地上の平和も、イエス・キリストの十字架と復活に結び付いています。イエスの誕生は、そのことの始まりです。そこに、クリスマスの喜びの根拠があります。それは、将来もたらされる天の栄光と地上の平和を遙かに望み見る喜びです。その栄光と平和は、まだ目に見える現実とはなっていません。しかし、イエス・キリストがこの世に来られたことによって、その実現の確かな約束が与えられたのです。クリスマスの喜びは、この神からの確かな約束を生きる喜び希望なのです。私たちの喜びの根拠もここにあります。

しかし、その天の栄光と地上の平和は未だ目に見える現実となってはいません。そのような現実において私たちは、神の助けと導きによってそれを信じ、証しする恵みを頂くのです。イエスがもう一度来られると約束されたその日まで…。誰の目にも、その事がはっきりと見えるようになるのはその時です。そこに私たちの最終的な目標と希望があります。クリスマスから始まり、十字架の死、復活へと至るイエス・キリストの生涯がなければ、この希望を生きることは不可能なことです。

目に見える現実と、イエスによって既に実現している天の栄光…、その間には、余りにも大きな隔たりがあります。それは丁度、野宿をしていた羊飼いたちに主の天使が現れ、主の栄光が周りを照らした時に彼らが感じた体験と同じものです。この時、彼らは非常に恐れました。それは、神の栄光に照らされた時に覚える畏怖の念であり、神の栄光と、現実の自分との大きな隔たりを感じた人間の「戸惑い」ではないでしょうか。

 恐れずにはいられない羊飼いたちに天使は「恐れるな」と語ります。降誕祭を祝う私たちの喜びも、「恐れるな」というこの神の言葉によって実は支えられているのです。目に見える現実ばかりを見つめて、いつの間にか恐れに満たされている私たちも「恐れるな」という神からの声を聞かなければなりません。この声を聞いた羊飼いたちは、そこから押し出されるようにして、生まれたばかりの幼子に会いに行きました。そして、天使の告げた言葉がその通りであることを、自分たちの目と耳で確かめ、「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」のです。彼らも、天使たちの賛美に声を合わせて、天の栄光と地の平和をほめ歌う者となりました。それが彼らに与えられた恵みです。そのことが、私たちにも起ります。

コロナ禍のために、残念ながら共に歌うことは出来ませんが、私たちも典礼に与り、み言葉を聞き、共に祈る中で、羊飼いたちのように神への賛美を歌う者へと変えられていくのです。その中で、天使たちが歌った「み心に適う人に平和あれ」という歌が現実のこととなるのです。「み心に適う人」とは、立派な者という意味ではありません。誇るものが何もない貧しい自分を、神が選び、民全体に与えられる大きな喜びを告げ知らせる使命が与えられているということです。そこに、神の大いなるみ心があるのです。自分の相応しさによってではなく、神の恵みによって…、それが、み心に適う者とされる事の意味です。

 私たちだけがこの平和に与るのではありません。この平和への道をイエスと共に歩みながら、全ての人々と共にその平和を生きる者とされるように…です。目に見えるこの世界は今なお暗く、天の栄光も地の平和も見えてきません。しかし、その闇の中にイエス・キリストはおられます。だから主の降誕を喜び祝うのです。そして、天使の声に合わせて、天の栄光と地の平和を生活の中で歌い続ける者となるのです。地上の暗闇に絶望することなく、暗闇に輝く神の約束を信じて生きる者とされるのです。神は、そのような人々をご自分の「み心に適う者」として護り導いておられます。それが神の約束だからです。