一晩中働いても何も捕れない弟子たちを、「朝の食事をしなさい」と招くイエスの姿があります。食事の準備をしながら岸で待っていてくれたイエス。弟子たちは、どのような思いだったのでしょうか。裸同然であったペトロはイエスだと気付き、慌てて上着をまといます。裏切った弟子たちをもゆるし包み込む、主の暖かな愛が感じ取れる箇所です。ここに、教会のミサの意味を的確に指し示すものがあります。

 ミサは、まさに復活の主ご自身が用意して下さるものであり、そこに私たちは招かれ、私たちの貧しい実りまで、そこに加えられ、イエスを通して父なる神に捧げられる祈りです。このようにして、主の食卓に私たちの毎日の働きも捧げられているのです。夜通し働いて、何も取れなかった弟子たちでした。しかし、イエスの言葉に従いもう一度網を降ろすと、引き上げることができないほどの大漁となりました。そこで示されている意味は、私たちが神に捧げるものがあるとすれば、それもまた神から頂いた恵みなのです。私たちはそこで復活した主との交わりを確認し、その喜びを味わうのです。イエスは何回も主を裏切ったペトロに、「わたしを愛しているか」と質問し、「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」という答えをペトロから引き出しています。

 イエスが捕えられた時、ペトロは大祭司の屋敷の中庭まで紛れ込みイエスの様子を伺っていました。周囲から「あなたもイエスの弟子ではないか」と問われた時、彼は三度も「違う」と答えイエスとの関わりを全否定しました。(18章参照)イエスを否定したこのペトロに、主はその裏切りの数だけ、「わたしを愛しているか」と聞き返しておられる、そこに大切な意味があるのです。イエスは、ペトロの心を疑っておられるのではありません。ペトロの本心を誰よりも知っておられるのです。立派な信仰を生きたペトロだから、招かれたのではありません。それは、ユダも他の弟子たちも全く同じです。

「わたしは、イエスなど知らない。関係ない」と断言したペトロ。洗礼の恵みを受け、主の食卓に招かれている私たちも同じです。復活した主が招いて下さり、主に従うとは何なのかを教えられて初めて、私たちも新しい人生を生きることができるのです。

「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたが一番よく知っておられます。」

 このペトロの言葉に、言葉にならない深い悲しみが込められているのを見逃してはなりません。「あなたのためなら命をも捨てます」(13章37)と豪語したペトロでしたが…。「愛しているか」と聞かれても、「はい、愛しています」と自信を持って答えられるペトロではもはやなくなっています。そのペトロが、イエスを愛する者として再び新しく生き始めるとすれば、その力はどこから生まれてくるのでしょうか。人間の努力だけで乗り越えられる話しではないのです。人間の数々の裏切りにもかかわらず、私たちを新しく生かそうとしておられるイエス。この主のみこころに支えられて、私たちは新しい命を、そして愛を生きる力を頂くのです。

 思い起こして下さい。一晩中 何もとれず悪戦苦闘していた弟子たちの姿、諦めていた弟子たちの姿を。そこに主が現れ、「あなた方に平和があるように…」と語りかけられたのです。その体験を通して彼らは、主の復活の意味を徐々に学んでいったのです。

 イエスを裏切った夜、ペトロはイエスと目を合わせたその瞬間、あるがままの自分に気付かされ、外に出て激しく泣きました。(ルカ22・62)   そして、絶望のどん底にあったとき、復活の主に出会い、神と人とを愛する新たな生き方がそこから始まったのです。これは彼の体験から生まれた信仰告白でもあるのです。

 このペトロに、「わたしの羊を飼いなさい」と主は言われたのです。教会に属する人々のことをイエスは「わたしの羊」と言っておられます。かつてイエスは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10章11節)とおっしゃいました。このイエスが、ペトロを教会の指導者に立てようとしておられるのです。教会の真の牧者はイエスご自身ですが、ペトロはこのイエスの思いに促されて、イエスの思いで教会を導く牧者となるよう望まれます。主は、言われました。

 「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

 信仰は、自分なりの信念や正しさによって生きるものではない、ということを主はここで教えておられます。「あなたのためなら命をも捨てます」という自信ある宣言に土台を置く信仰は弱く脆いのです。これがイエスの言う「自分で帯を締め、行きたいところへ行く」生き方です。しかし今のペトロは、イエスが与えてくださるゆるしの愛によって新しく生かされています。このペトロに、主は使徒としの役割を与えておられるのです。このペトロも最後はローマで十字架につけられて殉教しました。イエスの言葉に、彼なりに従い抜き、神の栄光を現したのです。

「あなたは私を愛しているか」という問いに、以前だったら自信を持って「はい」と答えたペトロ。しかし今は、「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えるしかなかったペトロの悲しみ(ヨハネ21・17)も見逃してはなりません。人間は、願いどおりに生きれたから幸いなのではありません。人間の限界に悲しみながらも、主ご自身の中から生まれ、主ご自身から与えられる信仰と希望に気付いたペトロこそ幸いなのです。人間の弱さの中で、涙を流しながらも 主の栄光を現わすことができたペトロだから幸いなのです。イエスの福音は単なる慰めではありません。全てのものを剥ぎ取られながらも、それでも生きていることに価値があるといえる”霊のいのち”を持っているなら、その人は本当に幸いな者です。神は、「傷つけても、包み 打っても、その御手で癒やしてくださる方である」(ヨブ5・18)と知っているからです。

  今日も悲しいニュースが流れています。知床半島の綺麗な自然を観光していた方々が船と共に海に沈みました。また数年前、突然子供を失い未だ見つからない母親の悲しみ 等々…。思うだけでも言葉をなくしてしまいます。しかし、それでも決して忘れてはならないことがあります。それは、主イエスもまた そこで苦しむ人々と共に苦しみ、涙を流す人々と共に涙を流し、痛んでおられるということです。その現実の中においてこそ、復活の主に信頼して歩む私たちの信仰も深められるのです。主の墓の前で嘆き悲しむマグダラのマリアに復活の主は言われました。「なぜ、いつまでも泣いているのか」と。主が復活された今、この地上には、最終的に嘆き悲しみだけで終わる現実はもはやなくなったではないか…という福音のメッセージがそこにあったのです。