ユダヤ人たちにとって、エルサレム神殿は信仰の拠り所となる大切なものです。それが崩壊することは、彼らにとって世の終わりを意味するほど重大な事です。イエスはこの人々の前で「神殿崩壊」の予告をしています。「それはいつ起こるのか。その時、どんな徴があるのか…」と、人々は質問します。そこでイエスが語ったのは、「おびえるな」と言うことでした。イエスの語る世の終わりは、滅びではないのです。たとえ、それに伴う苦しみや悲しみがあったとしても おびえることではありません。とは言え、恐れずにはいられない現実の中で、どうしておびえずにいられるでしょうか。イエスは語ります。「こういう事はまず起こるに決まっているが、それでも 世の終わりはすぐには来ない」と。戦争や災害はいつでも起こり得るものです。しかし、そういうものによって本当の終わりが来るのではないのです。実際、エルザレムの神殿はイエスの予告通り紀元70年に崩壊しました。

イエスの語る「世の終わり」とは何でしょうか。またなぜ、そのことが起こるのでしょうか。答えは、ルカ21章25節以下に語られています。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」。イエスが大いなる力と栄光を帯びてもう一度来られる…、それは救い主イエスの到来によって、誰の目にも明らかな形で神の救いの計画が完成する時であって滅びではありません。この世界と私たちを結びつけているのは悪の力ではなく、主キリストによって現わされた神の愛の力であることが明らかにされる時です。不安の中にありながらも、恐れることなく進むことができるとすれば、それはイエスによって完成される救いの約束があるからです。「おびえてはならない」…この言葉は、私たちに慰めと勇気を与えます。時代の変化の中で戸惑いを覚えながらも、それでも 神の愛がある限り 私たちは安心して前進することができるのです。

「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く」(12節)。「これらのこと」とは、戦争や暴動、国々の対立、地震、飢饉、疫病などを指しています。イエスの言葉を信じて歩む私たちも、これらのことから逃れられるわけではありません。それと同時に、もう一つの苦しみがあることもこの世の事実です。それは何でしょう。「あなたがたは、わたしを信じる信仰のゆえに、会堂や牢に引き渡され、尋問や裁判を受けることになる。それは、“わたしの名のために”起こる試練である」…とイエスは語ります。これは、イエスを信じる信仰ゆえの試練です。

聖フランシスコザビエルによって日本に福音がもたらされて以来、どれ程たくさんの人々が迫害を受け、殺されていったことでしょう。福音が宣べ伝えられていく所、どこでも、いつの時代にも、このような事が起こります。その試練は、世の終わりまで続くことは既に予告されています。

「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」(16、17節)。

天災、人災についてイエスは「おびえてはならない」と語られていました。キリスト者が体験する信仰ゆえの試練については「あなたがたは、忍耐によって命をかち取りなさい」(19節)と教えています。それは、キリスト者同士の間においても言えることです。そこでイエスが私たちに求めておられるのは忍耐です。信仰ゆえに生じる苦しみは忍耐によって「イエスの名のための苦しみ」にまで、高められなければなりません。しかし、私たちの忍耐が単独で価値を生み出すわけではなく、それはイエスにつながっているところから生まれてくる恵みです。信仰による苦しみ、イエスの名のための苦しみは、そこから逃げ出すことも出来るものです。信仰を捨てる自由さえもイエスは与えているのです。そのような中で、イエスに留まり続けるとすれば、それはイエスが私たちを信じてくれていることを知っているからです。イエスは、決して信仰の押し売りをしません。イエスの優しさと思いやりが滲み出ている箇所です。忍耐によって信仰を生きるということは、神の愛に生かされていなければあり得ない事です。

「信仰による試練は、あなたがたにとって証しをする機会となる」…。イエスの名のために受ける苦しみに、愛によって留まり続けるならそれは証しの機会になると言われます。そこで証しするのは、自分を生かしているイエスの存在です。イエスに留まり続けることによって、私たちのありのままの姿が福音を証しするものになるのです。信仰のために苦しみを受けていながら、それでも逃げ出さずに留まり続ける姿。それは、どんな素晴らしい演説よりも雄弁な証しになるのです。私たちのあるがままの姿がイエスを証しし、イエスによる救いがどういうものであるかを明らかに示すのです。その人を見た時、その人を生かしているイエスご自身がそこで明らかになるからです。

「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」…。そうです。イエスが授けて下さる言葉と知恵は、反対者を説き伏せる巧みな言葉などではありません。どんなに見事な論理を展開しても、それで迫害がなくなることなどないのです。人間の知恵による巧みな言葉ではなくて、その人の生きている現実と結びついたイエスを伝えるのです。それこそが人を変える力を持っています。それは、前もって準備するものではありません。信仰ゆえの苦しみの中に留まり続けている人の姿、その苦しみを背負って生きている人のありのままの姿から、自然に現われる恵みです。それこそが、どんな反対者も 反論もできない力ある言葉だとイエスは言われます。

 この世には、予期せぬ様々な災害もあります。そこから完全に逃れることもできません。そこでイエスが語っておられることは、それらによって この世が終わるのではない ということでした。この世界は、救いの完成に向けて創造されています。イエスがもう一度来られることによって、今は見えていない神の愛が誰の目にも明らかにされ、完成されるのです。だから、おびえてはならないのです。今の苦しみは、救いの完成へと向かう歩みの中での 意味ある苦しみです。イエスによる救いの完成の時、それらは全て取り除かれるべきものです。その救いの完成を待ち望むがゆえに、私たちは今日もイエスに留まり続けるのです。 

「しかし、あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない」(18節)。信仰ゆえに体験する試練…。それは神の計らいの中にあるものです。そこで失うものは何もありません。あなた方の髪の毛一本までも数えられ、守られているとイエスは言います。地上で体験するすべては、神の愛のみ手の中の出来事。その愛を伝えることが私たち一人ひとりの使命です。自分ひとりで出来ることではありません。だから、わたしと一緒に歩もうではないか…、とイエスは呼びかけているのです。