イスラエルの歴史は、今から約四千年前(紀元前17世紀)、アブラハムとその息子イサク、そして孫のヤコブによって始まりました。彼らは遊牧民でした。創世紀には、彼らがどのようにして約束の地カナンへと導かれ、神を信じる民となったかが書かれています。その後、カナン全土に飢饉が広がった際、ヤコブ(イスラエル)と12人の息子はその家族とともにエジプトに移住しました。そこから彼らの血の滲むような、400年にも及ぶ強制労働と奴隷生活の苦しみが始まります。神の導きに従ってさえいれば困難がなくなるという話しではないのです。その後、イスラエルの民はモーセによってエジプトから脱出し解放されました(紀元前12~13世紀頃)。しかし、その後も、彼らの苦難は続きます。今度は40年に渡る荒れ野での流浪生活が彼らを待っていました。そこには人間の罪や限界をも用いながら、本当の救いがどこにあるかを学ばせようとする神の計画がありました。その頃、「十戒」や「モーセ五書」という旧約聖書の根幹をなす大切な文書が与えられ、ユダヤ教が形造られていきます。すべては神の導きの体験から生まれたものです。特に、出エジプト体験(紀元前1300年頃)は、彼らの心の奥深くに刻み込まれ、この体験なしには、ユダヤ教もキリスト教も語れないほどの貴重な信仰の原体験となっていきます。この神の歴史は、私たち一人ひとりの信仰生活においても言えることです。
今日の第一朗読(マカバイ記)には、復活の信仰を持って迫害に耐えた7人の兄弟と母親の姿が描かれています。彼らは、どれ程残酷な拷問を受けてもその信仰を守り抜きました。イエスの復活を体験する以前の時代にも、このような信仰を生きる人々がいたことに驚きます。また、第2朗読(Ⅱテサロニケの手紙)には、困難の中にあって、互いに祈る教会の姿があります。教会は昔から、様々な迫害や困難をこのようにして乗り越え発展してきました。この祈りと交わりの中に、教会の本来の姿があります。
イエスの時代、ユダヤ教はいくつかのグループに分かれていました。サドカイ派の人々はモーセ五書(創世、出エジ゙、レビ゙、民数、申命記)だけを重んじる人々です。彼らは、申命記を引用してイエスに質問します。その彼らにイエスも(出エジプトト3章)の言葉を引用して答えています。
サドカイ派は、申命記25章5節以下に書かれている、「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない。」という言葉を引用して、イエスの語る死者の復活には根拠がない、神の言葉にも矛盾していると、あるたとえでイエスに質問します。
「七人の兄弟がいて、兄から順番に一人の女性と結婚したけれども、七人とも子供ができずに死んでしまった。この場合、あなたの言う復活の時、この女の夫はいったい誰なのか」と…。これに対して、イエスは、「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。そして、この人たちは天使に等しい者であり、復活にあずかる者として神の子である」と語っています。今の時代の私たちには、この部分だけを見ても、イエスの言いたい事を正しく捉えることは難しいかもしれません。
イエスの語る「復活」は、私たちが今生きているこの体で体験するものではありません。死んだ後の経験はまだしていませんから、今の私たちの経験だけで推測しても的外れな話しになるだけです。その事をイエスが別の箇所で、植物の成長を通して説明している箇所があります。(ルカ8章4節以下参照)植物は、種から始まります。その種は、水と光、必要な養分があれば、やがて芽を出します。そして、花が咲き、実が実ります。そうなった時、元の種はどうなっているでしょうか。どこにもありません。最初にあった種は全く違うものになっているのです。種の形からは想像することも出来ない別のものに成長しているのです。今の私たちにとって、神の国を想像することも同じことです。私たちは自分の生活体験の延長線上で神の国を受け止めようとしようとしますが、それは違うとイエスは語っているのです。イエスの福音を理解しようとする時私たちが注意しなければならないことがあります。それは、自分の頭で考えて理解すべき大切な部分と、人間の経験に基づく頭の理解だけでは、いずれ先に進めなくなるという人間の限界です。“信仰は人間が始めたことではない”という謙虚さから出発しなければなりません。それを完成させてくださるのも神ご自身です。その事を理解していないところにカルト教団の危険があるのです。本当の信仰とカルトとは縁もゆかりもありません。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」(ルカ20・8節参)という最後の言葉は重要です。
モーセは神を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(37節)と呼んでいます。この人々はモーセの時代にはとっくに亡くなっていた人々です。しかし、既に亡くなっているこの人たちも、神の前に生きているということを前提にしながらモーセは語っています。「すべての人は、神によって生きている」。命は、私たちの現実を越えています。私たちの手の届かないところから恵みとして与えられるものが命。その命を神から与えられて生きること以上に尊いことはないでしょう。たとえ、私たちが地上から姿を消しても、人は神によって生きている…。神の子として、神の前に生きるとはそういうことです。神から与えられた命は、すでに私たちの内にあります。どんなに弱くても、その命を尊重し育む神の心を伝えるのが私たちの役割です。一人の人が神に出会い、この神を受け入れる時、天の国においては、天使たちの間にも大きな喜びが涌き起っているのです。その喜びに、あなたも一緒に加わって欲しい…というイエスの切なる願いがここにあります。神の国の秘密を悟ることが許されている(ルカ8・10)という事は、私たちの現実を遙かに超える大きな恵みなのです。