「仕えるために来られた王キリスト」は、私たち一人ひとりと関わりを持つため、地上の最も低い所にまで降り、生まれた時から死に至るまで仕える者となられました。最後は、奴隷のように弟子たちの足を洗うまでになってくださった方です。このイエスの存在があるから、私たちもその生きを目標とすることができるのです。このイエスの現実に触れた時、今までの価値観とは違う何かが生まれます。律法で決まっているから出来るのではありません。イエスがこんな自分と関わって下さっているという事実があるから、私たちは変えられ イエスの後を歩むことが出来るのです。
年間最後の主日である今日、教会は「王であるキリスト」を祝います。そこで私たちに約束されていることは滅びではなく、神の国の完成、救いの約束です。
「王」という言葉は、現代の私たちには馴染みにくい言葉です。にもかかわらず、このような表現をしているのはなぜでしょうか。それは、イエスが神の国の完成のために、なくてはならない重要な存在だからです。イエスの使命とも深く関わっている神の救いの神秘だからです。
旧約時代、イスラエルの王に選ばれた人々は 祝別された聖なる油を塗油されることによって、神と人との仲介者に立てられました。(サウル、ダビデ、サムエル上10章,16章,同下5章参照)
ピラトによって十字架刑にかけられた時、イエスの罪状には「ユダヤ人の王」と書かれていました。それは、ローマ帝国に対する反逆者であるという意味です。 イエスの十字架の左右には二人の犯罪者がいました。彼らも人々の嘲りと罵りの中で人生を終えようとしています。そのうちの一人がイエスに向かって、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言っています。しかし、もう一人の犯罪人は「イエスよ、あなたの御国においでになるとき、わたしを思い出してください。」と願っています。どうして、こんなにも大きく違うのでしょうか。この人にとってイエスは、人生の最後に見出した光であったかも知れません。全てを奪われた上で、この犯罪人が最後に望んだことは、「イエスよ。御国においでになるとき、わたしを思い出してください」という願いだったのです。人間にとって最も悲しいことは、自分が生きて来たことは無駄であった、何の意味もなかった、と感じることです。実際、多くの人々はこの犯罪人たちを見てそのように思っていたことでしょう。イエスは、このような人間の悲惨な現実にまで降りてきてくださった方なのです。
この時のイエスの嘆きの言葉を聖書は次のように伝えています。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)。
詩編22にも同じ言葉があります。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」。「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑(くず)、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇をつきだし、頭を振る。主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。」(詩編22・7節~8節参照)とあります。
弟子たちに逃げられ「なぜ、わたしをお見捨になるのですか」と御父に叫ぶイエスの姿…、これが地上におけるイエスの最期の姿です。イエスでさえも、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(ルカ22・42)と、叫ばずにはいられない悲惨なものでした。十字架というのは、まさにそういう絶望を味わわせるための刑罰です。「お前は、生きている資格もない」ということを、徹底的に味わわせるための拷問です。しかし、そのような過酷な状況の中でさえ、神の計画は確実に進行していることを福音書は教えています。犯罪人の一人は、イエスの涙ながらの絶望の叫びを聞いて、むしろ その中で救いを見出しているのです。「あなたが御国においでになるとき、どうかわたしを思い出してください!」。この言葉の中に、イエスに依り頼む信仰の核心が滲み出ています。本来苦しむ事のない神が苦しむ者 絶望する者となり、徹底的に仕える者になられた…。この姿のうちに神の心を見た時、深く心に響くものがあったのです。
「はっきり言っておく。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。
この言葉を聞いたあなたはすでに わたしと共にいるという宣言です。イエスは、絶望的な状況において、ご自分の心を最も明確に示されました。十字架において、あれ程の痛みを体験された方が、「わたしはあなたを心に留めている。あなたはわたしにとってかけがえのない存在である」と語っているのです。今まさに、自分の命 存在までも抹消されようとしているその最中に…。
「わたしを思い出してください」…。この言葉は、私たちの存在の意味を教える祈りのことばです。孤独と絶望そして痛みの中で人生の最期を迎えようとしていた犯罪人が、イエスを通して人生の最後に知った祈りの言葉です。それは、どんな悲惨な体験をしても、それでも自分は神から祝福されて生まれてきたという事実であり、呪われた人生ではなかったという事実です。すべてを奪われた今でも、自分と関わり続け 救いを約束してくれる神がおられることを知った者の 祈りの言葉です。
「はっきり言っておく。あなたは今日わたしと共に楽園にいる。わたしはあなたを、決して忘れない」とイエスは約束しているのです。
「あなたが御国においでになるとき、どうぞ私を思い出してください。」この言葉こそ、私たちの祈りでもあるはずです。苦悩や絶望の中にある時、失意の時、私たちはこの言葉を自分の祈りとして主に向けるのです。
神ご自身が、人間の苦しみの中に入り、絶望的な死までご自分のものとして体験してくださったからです。そこで 人間の限界、この世の限界に留まりながら、イエスは祈られたのです。そして神の驚くべき救いに変えてくださったのです。自分自身痛みを覚えながら、最後まで苦しむ人々と共にあろうとするイエスの姿です。一人ひとりの人生に寄り添いながら、共に歩もうとする神の姿がここにあるのです。イエスの十字架がなかったなら、このような神の心を誰が想像できたでしょうか。茨の冠を被せられ、ユダヤ人の王と嘲られ、むち打たれたイエスを通して、神の国は最終的に完成します。来週の主日から新しい典礼暦年の待降節が始まります。