今日の福音は、徴税人ザアカイとイエスの出会いの場面です。徴税人は、税金徴収という名目で中身を誤魔化し、私腹を肥やしていたのでユダヤ人たちからは罪人の代表として嫌われていました。このザアカイが住む町エリコをイエスが通りかかった時の話しです。イエスは今、エルザレムに上る途上にあります。そこは言うまでもなく、イエスの十字架が待っている場所です。

 人々はイエスが救い主かもしれないという期待を込めて、イエスのまわりに集まって来ます。ザアカイもその一人です。しかし、彼は他の群衆とは少し違った位置からイエスを眺めています。もしかしたら、この人は自分を受け入れてくれるかもしれない…、という期待を込めながら遠くからイエスを眺めているのです。

「彼は、背が低かったので群衆に遮られてイエスを見ることができなかった」と書かれていますが、そこにはもっと深い問題があります。すなわち、彼に場所を譲ってくれる人は誰もいなかったという事なのです。町の人々がザアカイを無視し、遮っていたのはなぜでしょうか。そこには、人々の敵意と無視する眼差しがあります。群衆とザアカイとの間には、このような厚い壁がありました。

 私たちが、イエスとの関わりを深める中で重要なことの一つに、人間関係の回復があります。ザアカイの根本にある問題は、人々との関係でした。彼は、そこから逃れて生きようとしています。自分の本当の問題を直視できないからです。そのザアカイの内面をイエスは見透しておられるのです。  

 なぜ、いちじく桑の木に昇ったのでしょうか。何としてもイエスを一目見たかったと同時に、一定の距離を置いてイエスを見ようとしたからです。それ以上のことは考えていません。しかし、イエスは全てを知っています。その木の下に来た時、イエスは立ち止まって上を見上げ、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と告げます。イエスが私たちのところに来られる、とはこのような事です。それまでイエスと何の関係もなく出会ったことさえなくても、イエスは私がイエスを知る前から私の全てを知っています。ザアカイに起ったことは、私たちにも起ることです。私たちも、それなりにイエスに関心を持って生きているでしょう。イエスがどんな方なのか、もっと知りたいと思います。このイエスについて行く覚悟があったからこそここまで来たのです。その私たち一人ひとりを、まっすぐに見つめながらイエスは言われます。「今日はぜひあなたの家に泊まりたい。急いで降りてきなさい」と。

イエスが私たちのところに来られるとはそういうことです。それは、「あなたの一番深いところで、あなたに出会いたい…」というイエスの渇きです。必要とあればイエスは、私たちの思いや意志とは関係なく、予告なしに入って来られるでしょう。それは、マリアにおいてもヨゼフにおいても同じでした。イエス・キリストは、必要な時に、最も相応しいタイミングで、私たちの心の中に入って来られます。マリアもヨゼフも戸惑いながらこのイエスを迎え入れました。ザアカイも同じです。イエスが、私たちの深いところに来てくださる…、それは戸惑いの体験であると同時に、私たちの心の最も深いところでの大きな喜びなのです。神が、人間を訪れる時の特徴がここにあります。心の扉を閉ざし、自分の殻に閉じ籠もっている私たちが、新しい世界に目を開かれる時です。自分では開くことのできない心の扉をイエスが開いてくださいます。

 イエスの促しによって、ザアカイは木から降りることができました。見守るイエスに信頼しながら…。何という恵みの体験でしょう。感動のあまりザアカイは、「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。誰かからだまし取っていたら、四倍にして返します」と叫ぶほどです。彼は今、自分の一番根本的な問題に目を向けるようになっているのです。彼は、自分だけの世界で満足していました。町の人々からも嫌われる悪循環の中で、いちじく桑の木に登るまでに高くなっていきました。イエスが、「今日私はあなたのところに泊まる」と宣言してくださった時、初めて、自分の根本的な問題に気付かされ、そこから降りてくることができたのです。そこに、彼が求めていた新しい道がありました。どんな大金によっても買うことの出来ない喜びがあります。そのザアカイは、今度は貧しい人々のために生きる者に変えられた出来事なのです。それまで、自分が苦しめてきた人々との間に、新しい関係を築きたいと望むようになっています。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」というイエスの言葉を、涙なしには聞けないザアカイの姿がそこにあります。このザアカイと出会うためにイエスは来られたのです。

 私たちの根本的な問題は、人を愛することができないということです。信頼関係を失い、高い壁を築き、孤独に陥っています。ザアカイのように高い木に登って、問題を解決しようとします。そのような私たちのところに、イエスは来られるのです。いつの間にか私たちが築いてしまった高い壁を乗り越えてイエスは来られます。私たちを正面から見つめ、「新しく生きる者となりなさい。今あなたがいる場所から降りてきなさい。わたしはあなたと話したい…。あなたの家に泊まりたい…」と語るイエスの声が聞こえているでしょうか。

 このイエスが、ザアカイの家に入るのを見た人々の反応は、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」という呟きでした。この人々の呟き、批判、悪口はやがてイエスを十字架に追いやることになります。人々から嫌われていたザアカイの家に泊まるということも、十字架を引き受ける覚悟がなければ出来ることではありません。互いに憎しみの壁を築くのではなくて、新しい関係を築く者とされる。イエスの到来によって、このような生き方が可能になりました。その完成を待ち望みながら、「主よ、来てください。あなたと共にあなたの心を生きる者にならせてください。」と祈る者でありますように…。