イエスは、人々の歓呼の声に迎えられてエルサレムに入っています。(11章初め参照)しかし、その週のうちに捕えられ十字架につけられます。本日の箇所は、律法学者たちを鋭く批判するイエスの言葉です。

「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」。

 ここまで彼らを厳しく批判したために、イエスは十字架にまでつけられました。律法学者たちは、世間から尊敬され重んじられることを求めている人々です。人々から特別な存在として尊敬され、挨拶されることを彼らは望んでいました。

 律法学者たちは、神のみ言葉を研究し人々を指導する立場にあった訳ですからそれは大切な努めなのですが、彼らはいつの間にか、神に帰すべき栄光を自分のものにしてしまっていました。神への奉仕と働きの結果としてではなくて、いつの間にか自分個人に対する尊敬を要求するようになってしまったのです。祈りさえも、信仰深い敬虔な人間であることを示すためのジェスチャーになってしまっていたのです。それが、イエスの言う「見せかけの長い祈り」です。神への祈りさえも、自分たちが尊敬されるための道具になってしまっていたのです。 このような指導者たちの姿を見ながら、信仰を生きなければならなかった当時の人々の苦悩を考えれば心が痛みます。

「律法学者たち、あなたたち偽善者は不幸だ。」ここには、人々が言いたくても言えなかったことをはっきり言うイエスの姿があります。だから、大勢の人々は喜んでイエスについて行くのです。

 ここで少し立ち止まって考えてみましょう。このイエスの言葉は律法学者たちにではなく、教えを聞くために集まっている人々に向けられています。その人々に向かって「律法学者には気をつけなさいよ!」とイエスはおっしゃっているのです。しかし、大切な事はイエスの言葉を聞いている私たち一人ひとりです。あなた方も彼らと同じようになってしまわないように……気をつけないさい!とイエスは語っているのです。律法学者たちを批判していれば済む話しではありません。彼らの姿は、私たち自身の姿でもあることに気付きなさいと言うことです。人に自分をどう見せるか……、それは律法学者たちにとって大変重要なことでした。人々の目は、彼らの生き方の基準でした。彼らの関心は人からの評価だったのです。結果的に、いつも人と比較しながら、自分ばかりを見つめて生きることになります。そして、安心したり、嫉妬心に振り回されたり……しながら生きるのがこの世の常です。どれ程律法を研究してもそこから神との出会い、本当の信仰は生まれません。

そこにあるのは偽善的生き方です。人の目を気にしながら、実際の自分よりも良く見せようとする生き方。それは人の目を気にしているところから生じます。私たちが、目を向けて歩まなければなければならないのは何なのでしょうか。 41節以下の「貧しいやもめ」からそれを学びなさいとイエスは語ります。

やっとの思いで、その日その日を生きている貧しいやもめ。そのやもめが入れた「レプトン銅貨二枚」。祭司や律法学者たちにとって、それは端金に過ぎません。しかしイエスは弟子たちを呼び寄せて語っています。

「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」。

 この貧しいやもめが献げたレプトン二枚の方が、金持ちたちの多額の献金よりも、遥かに大きい捧げ物だとイエスは語っているのです。イエスは何を伝えようとしているのでしょうか。それは、「あなたの信仰は、どこを見て、誰に向って捧げられているか」ということです。貧しいやもめの姿は、神の導きと計らいに全てを委ねて生きる信仰です。

 僅かな献げものでしかなくても、神は喜んで受け入れて下さいます。僅かな捧げ物とは言え、それは彼女の生活を支える大切なものです。神のまなざしの中で、神に信頼しながら、それを献げる姿をイエスは見ているのです。それは、彼女が神を愛し、その導きに信頼していなければ出来ない事です。イエスは彼女を見つめておられます。その神の前に、全てを委ねて生きる人の信仰には大きな力があることを教えておられます。

たとえ失敗の体験であろうとも、イエスを通して、イエスの眼差しのもとに生きたいと望む時、私たちの限界さえも大きな恵みに変るとは……何という恵みでしょう。信仰は、このような体験の中で深められ、高められていくものなのです。

 貧しいやもめの姿を見つめておられるイエス。このイエスのまなざしの中で生きるよう招かれている私たち。このイエスの眼差しが私たちを支えます。このイエスの眼差しを意識することによって、私たちが持っているものが、どんなに小さなものであっても、そこに大きな意味と価値を与えて下さるのは神ご自身ですから、私たちは、安心して今日も全世界の人々のために祈らせて頂いているのです。

 

(この福音解説は、カトリック徳田教会のHPからもご覧頂けます。合わせてご利用下さい。)