律法には細かな部分に到るまでたくさんの掟がありました。一般の人たちがそれを理解するには大変な苦労がありますから、律法学者はその研究をし、生活の中でどのように生きるかをアドバイスしていたのです。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」というのはそこから生まれた問いです。彼は、神の掟に従って生きる信仰生活において、最も大切にすべきことは何かと聞いているのです。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」。この箇所は、イスラエルの人々が誰でも暗記して毎日の祈りにおいて唱えていた言葉です。
神を愛することこそが、あらゆる律法の要、神の民としての生活の中心だとイエスはおっしゃっています。同時に、その掟の前提として申命記6章4節の言葉「わたしたちの神である主は、唯一の主である」という言葉も見逃してはなりません。神は一人の神であられる、ということがこの掟の大前提です。「わたしたちにとって、神であられる主はただ一人」なのです。私たちは、この方との交わりに生きるよう召されているのです。その神との交わりが「愛する」という関係で表わされます。それは愛と呼ぶしかないものです。愛するというのは、ただ好きだ、好意を持っているというようなことではなくて、人格と人格との関わり合いから生まれるものです。私たちは、神とのそのような人格的交わりを生きるよう招かれているのです。この神を信じ、愛する時、私たちは孤独から解放され共に歩んで下さる神を知ることができるのです。「あなたの思いの全てを通してこの方を愛しなさい。なぜなら、この方は、私たちと交わりを求めておられる方だから」ということです。
第一の掟に続いて「隣人を自分のように愛しなさい」という第二の掟をも示されました。この二つは切り離すことができないものです。神を愛することと、隣人を愛すること、この二つが結び合って律法の中心、信仰の中心をなしているのです。神を愛することを離れて隣人を愛することはあり得ないと語っているのです。神は愛しているが、隣人は愛せないというならその愛は偽物です。目に見える隣人とどう関わっているかによって、目に見えない神と私たちの関係も明らかになってくるのです。神を愛しているつもりでいても、実は自分が勝手に造り上げた神を愛しているだけかもしれません。それは結局自分自身を愛しているに過ぎないのです。
イエスの言う隣人とは、自分の好きな人、好意を持っている人ではありません。もしそうなら、それは神への愛の印とはなりません。神への愛の印となるのは、自分にとって好ましくない人、好意を持てない人、自然的にはとうてい愛することのできない人をイエスとの関わりにおいて愛することです。ですから、一緒にいて楽しいとか好きになるということではないのです。私たちは、自分のことは基本的に赦しているのに、人に対しては「赦せない」という思いを持ってしまう者です。イエスはそのような私たちに、「あなたがたは自分を赦しているのだから、同じように隣人をも赦しなさい」と語っておられるのです。続いて、「『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」とも語っています。その彼にイエスは、「あなたは神の国から遠くない」と語りました。神の国はあなたの近くにある。しかし、あなたはまだそこに到達してはいない、とおっしゃったのです。この人に欠けているものは何でしょうか。それは、イエスが語った律法の要、心と精神と思いと力を尽くして神を愛することと、隣人を自分のように愛することです。
私たちはどうでしょうか。自分の存在の一部においてだけ、神を愛している積もりになってもそれは信仰ではないのです。到底赦し得ない人を赦し、愛するほどの力が私たちにあるでしょうか。私たちはそのような愛と赦しに生きることが出来ないものです。あの律法学者と同じように、頭でしか神を理解出来ない私たちに、イエスはそれでも「あなたは神の国から遠くない」と語って下さいます。
なぜでしょうか。それは、今私たちの目の前にイエスがおられ共に歩んで下さっているからです。そのイエスを信じ、イエスに信頼して共に歩もうとする生き方、それが私たちに欠けているものなのです。イエスは、全存在をかけて、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてその約束を実現して下さいます。この方が私たちに語りかけ、神の愛の中に招き入れようとしておられるから、「あなたは神の国から遠くない」のです。全存在をあげて神を愛することのできない私たちを、イエスが全存在をかけて導いておられるのです。だから、及ばずながらも安心して、神と隣人を愛して生きていこうと決心することも出来るのです。このイエスの存在と約束があるから、私たちは神の国から遠くないのです。