「いちじくの木から学びなさい」というイエスの言葉は何を語っているのでしょうか。そこから何を学ぶのでしょうか。それは、イエスがもう一度この世に来られ、それによってこの世が完成されるということです。そのような、神の壮大な計画の中で私たちは生かされ、今を生きているのです。ですから、この世の終わりをも視野に入れた中で、神の愛の計画に協力する者になって欲しいという願いです。
典礼の年間が終りに近づくと、世の終わりとか終末を意識させる言葉がたくさん登場します。しかしそれは恐れを抱かせるためではなく大切な事を意識させるべき時だからです。いつの時代でも、地上にはいろいろな苦しみがあります。しかしそれは、救い主が戸口に近づいていることのしるしなのです。福音書が書かれた時代の人々は、既に苦しみのど真ん中にありました。戦争や迫害などは、彼らにとって将来のことではなくて、今直面していることでした。それはいつの時代においても同じです。ですから、私たちにとって「人の子が戸口に近づいている」ことを悟るべき時は、いつかではなくて今なのです。
どのように生きることが、世の終りを意識して生きることになるのでしょうか。 それは、すでに完成に向けて神の救いの働きが始まっていることを正しく認識して今を生きるところから始まります。この世があと何年続くのかと考えているだけでは意味がありません。それは福音の生き方とは関係ないものです。
私たちの人生や死についても同じことが言えます。死は私たちに「終わり」があることを意識させます。人生に終わりがあることを見つめさせると同時に、この世の終わりをも見つめさせるのが死です。
なぜ、死というものがあるのか…。これも神の創造の神秘の中で受け留めなければならない神秘ですが、イエスは死は恐れるものではない。終わりの時を正面から見つめつつ、それによって今を動じることなく生きなさい……、と教えて下さいました。そのような生き方はどこから生まれるのでしょうか。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。この言葉も私たちを勇気づけます。「終りにおいても決して滅びることのないものがある。そこを見つめ生きなさい」と言うことです。その「滅びないもの」とは、イエスを通して告げられた神の言葉です。これこそ、天地が滅びても決して滅びないものです。そこに、私たちの目標となるものもあるのです。
普通、天地が滅びればどのような言葉滅びてしまうのではないでしょうか。しかし、そうではないとイエスは語ります。そのことを告げているのが、イエス・キリストの復活です。復活によって、死の力を打ち破ったイエスは、いま新しい命、永遠の命を生きておられる方です。そして、その命を私たちにも与える事を望み、約束して下いました。イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神のこの救いの約束は実現されています。イエスによって示された神の愛とは、死の力をも打ち破るほど大きなものです。この神の約束がある限り、何があっても恐れることはないのです。
神は、この救いの恵みに私たちを与らせるために、何度人間に裏切られても、あらゆる可能性を探って下さいました。「世の終わりに、もう一度来られる」というイエスの約束は裁きのためではなく、救いの完成のためです。イエスが再び来られることによって救いの約束は最終的に完成するのです。それが、福音の中心にある神の約束です。それによって、死の力をも越えた神の愛が示されました。そこに私たちの希望の根拠、安心して生きる事のできる根拠があります。将来のことが分かっているから安心なのではありません。何があろうと、イエスが共におられるから安心して委ねて生きられるから安心なのです。全てはイエスにおいて調えられ、恵みに変えられる約束だからです。